風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

聖杯戦争のルール説明2

現在の我々は何を考えればいいのか。考えることは表象を創造するための一形態であるという認識から出発して既存の権威を乗り越えることができるような場所や手段を探すこと。そのための具体的な手段としてまさにこの方法を使って考えられているサブカルチャー自体を批判的に検討しなければならない。サブカルチャーを批判するための準備としてなぜ現状でサブカルチャーが批判的機能を持っていたのかの分析をしておこう。単刀直入にいえばそれは日本の政治的無力さゆえだといっていいい。安保締結が止めをさした民主政治の学問的革命は政治的無関心に行き着いたのである。それは大衆の創造能力を完全に無視して一方的に学問的知識を与えたり経済的利害関係を教え込んだりすればなんとかなるだろうと考えてきたことの結果であった。次に大衆の創造能力を利用することだけをみれば一応は成功してきたナショナリズムの基準を考えてみなければならない。地元の名産品を起源的歴史を捏造することで売りさばき土地的な関係を取り戻そうとする試みは、資本の媒介を経なければ過疎化が進むだけであるということがはっきりとわかっただけであった。これに外交の基準が入ればもうお手上げとなる。企業が必死に世界に通用するような日本的誤解の人材を作り出そうと努力していることがわかろうというものだ。そこで資本の問題に入るわけだが、もし資本だけで問題が解決するというのなら何も問題は起こらなかったということだけは初めに言っておく必要があるだろう。コンピュータやスマートフォンなどによる特定企業の情報技術は一般的な日常品となることで利便性の徹底的な収奪構造を構築した。だからといってサブカルチャーが資本と共犯関係にあることは間違いない。サブカルチャーを批判するのはそのことを告発するためでもあるにはあるが、それよりも資本を手段化できるサブカルチャーの存在を可視化するためでもある。方法論的前提として検討をするのは大衆の創造能力を動員することができたものだけに限りたい。これは単発的な作品はどんなに出来がよくても個人の良心を満足させるだけであるという理由にある。私はキリスト教に行き着いたものは除外する。個別的ケースで流派を生み出せることは本当の天才にだけ許された特権だが、とりあえずここでは大衆的な創造のケースを見ていくことにしよう。まず自明の前提として商品市場に置かれたライトノベルや小説投稿サイトの基準を考えておかなければならない。これはいうまでもなく資本との全面的な共犯関係を強みにするやり方である。これだけでは何の批判的検討にもならないのでいくつかの分類方法を導入する。最初の分類方法として技術資本に創造能力が依存しているかどうかを区別する。これはボーカロイド、マインクラフト、フリーゲームそしてガンダムなどのロボットアニメに典型的である。このレベルで問題を立てた場合、それがどんな形態をとろうともその源泉となった技術資本を美しく飾り立てることしかできない。次に大衆レベルでの二次創作が可能かどうかで分類してみる。東方、艦これアイドルマスターなどである。ここで重要なのは創造能力が最終的に何に依存するのかを見ることである。アイドルマスターの場合、それはアイドルを成功した商品にすることに帰結する。この優先順位は覆しえない。アイドル候補生をアイドルになるもの以外として主張することは許されない。艦これの場合はもっと単純である。これはDMMの企業利益になるかどうかに帰結する。私が艦これに感心するとしたらこの点である。エロを最初に持ってくると創作のヴァリエーションは限定される。では東方はどうだろうか。それは東方の世界観に合致するかどうかに帰結する。極論を言えば原作のSTGがなくても東方は機能する。原作の潜在能力は留保するとしても東方は大衆宗教としてすでに確立した勢力である。問題はひとえにこの宗教勢力がどのような政治的無関心を決め込むかにかかっており、結果的に文化を独占的に要求しようとしていることは看過できない事態である。もちろん東方に対抗できる勢力がいないのが悪いわけだが現実にはそうも言ってられない。東方の世界観の弱点は能力による立法の形式的実在性である。これは東方の世界観が常識と非常識の結界で分離されているということを含めてもそういえる。キャラクターのほとんどはインターネットと親和的になるように記号的特性で装飾されており、原作の能力表現をデータベースとして置換することで性格規定を補っている。理論的には記号をエモーションと連動した対象として音楽の構造的に欲望すればいいわけだが、そうすると肝心の大衆的求心力を失ってしまう。STGの形式だけでは構造を欲望するのに不充分だったのだ。だが問題の本質は原作者が東方の世界観をSTGで表現した者の一人になってしまうということにある。東方が他の種類のゲームやメディア表現とでも圧倒的に親和性が高いことはすでに証明されている。二次創作に食いつくされないための強靭さが原作者にあるからこそ厄介な事態になっていないが、そうすると原作者が何らかの意味でのリーダーになりかねないというジレンマになる。したがって考えるべきは東方の世界観を手段として利用できるような個別的ケースの創造能力であるということになる。創造能力が生産の形態をとるか破壊の形態をとるかは重要だが、それはどのような流通形態をとるかによって決定される。現在の状況では平凡に見えるが結局次のような手段をとるしかない。つまり資本をサブカルチャーに親和的な方向に誘導してある程度の土壌を作り、サブカルチャーが文化宗教としての圧力と感じられるまでにしなければならない。そのための第一歩は無意味な民主政治を終わらせるところから始まるだろう。