風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

引用者の注釈

私としたことが夏の暑さで頭がやられてしまったらしい。統計的能力の無能さにもかかわらず語る口実として利用してしまうとは!こんなことをするんだったら国民経済学を全否定した方がましだ。数字の説教家や福音的宣伝広告にやられてしまうところだった。単純なものから複雑なものへではなく複雑なものから単純なものへ!デカルトの反対に感覚を信じること。ご存じのように私は極端から極端にしかいけない人間である。若干政治的熱狂に当てられてしまったらしい。若いうちから党派人になる訓練や右翼が殺人兵器のおもちゃで事故満足するのを素晴らしい浪費だとして反対する顔色を作る練習をしなければ。我々は国家の利益とか市民の安全とかよりもいかに高級な浪費ができるかに関心があるのであって、その点ではデモの役者たちに期待してもよい。ある種の予測できたという口実で訴訟するための責任を捏造したからには、我々は冗談抜きで預言者でなければならない。苦痛が説明を求める感覚を生み出すからには萌えの官僚的形式で株を買うべきであろう。我々は不正を断罪しているのではなく、サービスの全能性にキュンキュンしているのである。あくまで民主主義の観点から権力の暴走を全体主義という形式で批判するとすれば犠牲者の言説しか注目されないことは明らかである。必要なのは財政健全化ではなく、「多数の国民」の不幸を噛み締めながら放蕩することにあるのだ。これでさくらんぼの種を不味そうに吐く悲劇的対立が演出されるに違いない。私が一度でも軍隊や戦争を否定しただろうか?むしろ哲学者として現在のあらゆる功利主義的畜群に宣戦布告してきたのではなかったのか?平和憲法がなければ戦争と戦うことができないと思っている畜群とだ。私は理念による戦争は原理的に必要だと考える末期のヘーゲル病患者ではない。ところで、ヘーゲル病とは歴史によるのでなければなにも考えられないという病気のことである。歴史に抗い自主的に人類と戦争する哲学者の軍隊、これこそライトノベルが想像してきたものではないだろうか。