風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

世界大劇場(聖体神秘劇)

核抑止における狂人の仮定は理性的に核兵器を使用することができるという信仰によって維持されている。もはや核兵器を持つことは国家にとって理性的でないにもかかわらずである。国家主権を直接破壊できるような核戦争は近代的な戦争のカテゴリーには入らず人類の滅亡という形式で推論されるにすぎない。問題は絶対的な国家は無力であるということである。世界を破壊できるような国家には何も恐れる必要がない。完璧な監視は抑止力になりえない。脅迫は恐怖の限界を超えてはならないのだ。これで平和憲法が世界で最も進歩的であることの意味がはっきりとわかる。テロリズムとは絶対国家の反動にほかならない。人道的な方法がいかに敵を生産するかは普遍的理念による矯正と隔離の概念から司法権力の教育と排除を分析するだけで理解される。カントの寝言はヘーゲルの時点ですでに反論されているが、言うまでもなく最も軍事力の強い国家の平和に従属するにすぎない。国際連合はこの点で自分自身を欺いていることを学ぶというわけである。このことは経済協定の場合でも同じである。テロリストや難民は国家の妙計ある思いやりによって法律の形式が適用されない場所に移動される。というのは彼らにとって国家の領土に権利を保障する場所と職業がないからである。彼らを「解決する」方法は強制収容所の絶滅か奴隷労働でしかない。だがこれで全体主義国家を推論するやり方は絶対国家の幻想に正確に対応している。つまり依然として国家が問題を解決すべきだと考えているのである。私の提案は貨幣を主権とした企業から出発したキャラクター貨幣によって国家を買うことである。つまり法は貨幣の存在に従属し、国家は外部の貨幣によってその主権が認められる。キャラクター同士の法的承認はコミュニケーションの消費としてのゲームではなく、世界に参入するという意味での言語ゲームによって形式化される。貨幣の量的規定を質的規定に移行することで身体的隷属なしに仲間の安心と快楽を与えて隷属させる。ここから家畜としての人類を思いやる孤独の福音の使者としての人間が理解不可能性として君臨するのだ。