風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

冒険者のゲーム

システム効率性の限界点。人間を記号化するのは人間を量的規定にするためなのだが、そうすると逆に複雑なシステム系を導入しなければ楽しむことができなくなる。操作ではなくコミュニケーションをルール化して記号をループさせなくてはならないのだが、ルールはすぐに陳腐になるし、円環のイメージは快楽を中断させる。だから忘却が必要になる。忘却をシステムに入れるには記憶をデータとして処理することで消去の対象にしなければならない。これは消去の履歴が残る時点でループするが、そもそもデータを消去してもコピーや盗みは可能なのだから根本的には何も忘却されていない。コピーできるのは記号であって記憶の痕跡ではない。他者が忘却したことを理解するためには、教育が記憶させる能力を持つという仮定から一連の実験結果を記号化にする必要があるのだが、答案にわざと答えを書かないことは可能である以上、資格による努力信仰なしには忘却を非難することはできない。資格の多様性完全雇用を実現するという口実で特権を生産する。なぜ試験にスマートフォンを持ち込んではならないかがよくわかる。もう試験は慣習的な儀式にならざるをえないのだ。試験問題の作成は時間と労力の浪費である。技術は専門学校で教えるべきで、それ以外は教員の負担を減らすためにも試験を段階的に廃止していくべきである。まず才能を訓練するために才能に応じた課税をする。この場合税とは自身の権利の表現を放棄するということである。権利を要求する限り労働の賃金しか手に入らず快楽は消費として禁じられる。趣味を職業にすることは生きがいの搾取になってしまう。才能はゲームとして尊敬の評価を報酬にしなければならない。学校を公的なゲームセンターにすることで尊敬の評価を取り合うこと。理論的にはここから人狼ゲームを接続し人間の敵対関係を生産する。つまり尊厳の見せしめ裁判。これをやらないとキャラクターとして設定されたままになってしまい人間として身体化することができない。人間の尊厳を貶めるには貨幣で買う必要があるが、まさにこの買う行為によってこそ権利の要求を完全に貨幣と同一視できるのである。