風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

声の名付け

人間という職業からの転職と人類に休暇届けを出すこと。人間がこの人生を一度しかないと感じるためには死の恐怖が必要である。死の一回性。その後で死ぬことが怖いのではなくて人生が無意味であることが不安であると知るのである。一度しかない人生がまったくの無意味であるということ、このことから幻想が生まれてくる。というのは必然性が意味であると感じられるためには意志と宿命という因果律が自由意志によって認識されなければならないからだ。だが自由意志は何から自由だと言うのか。時間性からか。後悔は意志の不可逆性として最も強力なものではないのか。後悔がなくなるためには意志は救いへの信仰となって不幸を苦悩し続けなければならない。かくして苦悩は正しさになり、復讐するために苦悩を愛の布教によって与えなくてはならない。敵は愛を与えられようと不屈であり、信仰の正しさは殉教以外の何物にも証明され得ないと絶望する時、仮に無限回死んだとしてもそこに意味はあるのだろうかという懐疑が訪れる。人生にそれ自体として意味があり祝福に満ちたものであるのならば、すべては生成の多様性の中に沈没するしかないはずだ。すると人生の無意味さは必然性であり、人生が一度しかないものであったとしても不安に思う理由はないと理解するなら、たとえ生まれなかったとしても最高の感謝で人生を迎えることができるだろう。感謝はあらゆる人生を手段にし、生まれてこなかったことの絶対性によって人生の一回性を断ち切り運命の主人として君臨する。人生のすべては奴隷化し、あらゆる意志、あらゆる価値、あらゆる幸福が取り去られるならばどうして生まれなかったことを絶対視できるだろう。受胎は幽かな声であり、いまやそれを名付けることで誕生させなければならない。声を何と名付けるべきなのか。語る口実としての「私」が求められているのではないのか。だから私は言う、一切は同じことであると。新しいものは存在しないという事実は、過去と未来に対していかなる態度をとるべきかを決定する。すなわち常に同一に成り続けるように書き、行為すべきなのだということを。