風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

冒険の書に名前がつけられない

・「子供を生むことの禁止」とは、自身のシニフィアン、あるいは名前、意味を一度限り決定的につけることは不可能であるということである。だから匿名化の基準にしたがって解釈の大きいものだけが存在するということになるだろう。同一の世界に繰り返し決定的に誕生すること。つまり一度限り決定的にを決定的に放棄すること。名前は他者の観点を「仮定」した場合にしか存在せず、いかなる意味でも自身がそのシニフィアンと同一化することはない。ニーチェを乗り越えるとは名前という概念を乗り越えるということに等しいだろう。固有名ではなく作品というテクストにおける記述を自動記述ではなくその有名さにおいて偶然化すること。
・こうなれば後は私にとって心残りになったことを書いて真正さの強迫観念によって始まったこのブログを終わらせるとしよう。心残りとは西尾維新を完全な頽廃呼ばわりしたところについてで、もちろんこれはアイロニーなのだが、あたかも西尾維新が道化を戦略的に使っているのではないかのように私が解釈しているように見えるので、一応弁解のために書いておく。当然西尾維新の弁解というか言い訳は過剰なのだが、それが西尾維新の特徴なのだから何をいわんやである。責任とはまあ単に現在の状況で道化の信仰なしに語ることができるかどうかという問題なのでどうでもいい(ついでに言うとそれは『悲鳴伝』で過剰な解釈になった)。没落を頽廃を明晰に書く者はデカダンスであるということにはならない。だからといってそれが危険でないということにはならないのだが。
・感謝すべき固有名は存在しないのだから、与えられることなしに奪うことができる。ただし時間を除いては。