風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十六回目の爆発『検閲の操作』

警察の存在論的条件とはどのようなものだろうか。犯罪を取り締まることにあるのだろうか。そもそもなぜ犯罪をなくそうとすることが重要なのか。一般的功利性(公共の福祉)が脅かされるからである。ところで犯罪が可能であるのは、ある一般性が利益の規範として成立しているときである。法の身体とは相互性、すなわち一般性にほかならない。そして法の身体は侵害されうるということ、ここに利益というものが存在する。犯罪とは法の身体に加えられるのことだが、司法の役割とは功利的一般性によって象徴化できない犯罪という謎を、科学的体系によって利益の一般性に変える操作である。したがって冤罪は司法の利益の記述不可能性を意味している。利益の一般性の表象は貨幣である。犯罪の価値は司法が支払う(あるいは支払わせる)貨幣の量によって評価される。死刑とは法の身体の破棄のことである。このことを逆に言うと、犯罪の一般的な価値は警察の犯罪に対する弾圧に比例するということである。功利的一般性が不可能になればなるほど警察の役割は増大するからだ。正義は功利的一般性と違って評価を法の身体の侵害によって測るのではなく、破壊によって測る。というのは正義とは別の一般性に対しての侵害だからであるが、それを利益とするには動員できる暴力に依存しなくてはならないからである。それゆえ暴力と利益が一致する正義は普遍性と呼ばれる。普遍性の本質はある一般性に従わない身体を破壊して法の身体に作り変えることにあるが、これこそ啓蒙や学習と呼ばれるものである。知識とは比較計算ができるということであり、だからこそそれは有効に使用できるのだ。ここから検閲が導入される。検閲とは効率化された抑圧にほかならない。つまりそれは他者の欲望を生産する。表現できる検閲は存在しないということは、次の例によって説明できる。「~の表現をしてはならない」というような禁止の法は暴力なしに実現することはできない。つまりこれは検閲に失敗しているということである。表現とは権利である。権利とは一般化された侵害であり、他者に害を及ぼさない利益のことである。したがってひとつの約束、ひとつの嘘、ひとつの欲望の形式にすぎない。宗教とは権利の法の身体を生産する。これは創造主の問題として定式される。人間が神の失敗作なのか、神が人間の失敗作なのか。いずれにせよ利益を求める主体と罰を与える主体は等しくなる。禁止の法が欲望の形式として生産される。こうして検閲は表現の能力になるのである。このようにして生産された罪の意識は芸術による感情の効率化や哲学による思考の効率化の操作を経て情報過多の検閲を引き起こす。そこで価値を決定するために商品身体の交換と流通が行われる。検閲が世俗化され神の罰は貧困として現れ革命によって解決されなくてはならない。検閲の最終段階として回帰の検閲が行われ、新しい法の身体をまとうことができなかった身体は地獄と大文字の他者の無視をもって匿名化される。