風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十五回目の爆発『アフォリズム』

・自己克服とは一体何なのか。そんなことは可能なのだろうか。克服する自己がむしろより低劣になるための自己克服というのもあるのではないか?つまり堕落こそそれではないだろうか。
・道徳教育に対してはシニスムを持ち込ませずに断固として正義を実行することを教えるべきであろう。それが画一化されるとか悪用されるとか考えてはならない。なぜなら施行する側は、まさにその態度を狙っているからだ。我々は常にこう答えるべきだ。「道徳的な人間を見せろだと?我々こそそうだ!」と。
・私の頽廃の定義とは何なのか。何を基準にそう言っているのか。つまりそれは私の母親を基準にしているのだ。完全に強力で真面目な労働者である私の母親をだ!私は文化人などではなくはるかに農民的だと言える。昔はカトーに憧れていたし、レヴィ=ストロースが引用しているバルザックの言葉「自分のやることをあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。」を実践しようとしているだけだとも言える。
・図書館の本を借りるのは金を借りるのと同じような心理的関係があるのではないだろうか。いわば「生きた本」になるための知識の経済学といったものがあり、そしてその剰余価値をここにのせているわけだ。「告白」では充分ではない。自伝でも充分ではない。虚構の物語こそ、可能性を含むという点で「生きた本」となりうる可能性がある。というのは、嘘が許されているのは物語だけだからである。
・私は実際のところ、ここに書かれている断言形式―――アフォリズム―――を私のスタイルだと認めさえすればいいのか。私はどうしても自分の書いていることがわざわざブログにのせる価値がないと感じる。私は何か決定的な哲学上の洞察とか、とてつもなく独創的なこととかを書かなければならないと感じるのだが、これこそまさに他者の欲望に捉えられた虚栄心というものではないのか。私の好きなことを書くというのは不快で不安になる。しかしこれこそ臆病ということではないのか。私は他者の役に立つことしか書こうとしていなかったのではないか?私が良い文章を書こうとする努力こそ良い文章なのであって私は自画自賛を不当に恐れすぎているのではないだろうか。
・実は私が「良い」と密かに規定しているのはライトノベルや新聞の文章なのではないのかという不安がある。私はライトノベルに憧れているのに何か読もうとするたび失望を味あわされ、そのリアクションに規定され過ぎている。私はエッセイが好きになれない。そこにはいつも自画自賛と虚栄心しかないように見える。永井均が言うように実栄を求めるのではなく、虚栄を求めるのはそれで分が過ぎることがないのなら良いことかもしれないとしてもである。結局、私は自分の文章が好きでなく飽き飽きしているということだ。いつも同じことしか書けないのでうんざりしている。「私」についての文章が無意味な誇張にならないためには、聖アウグスティヌスのように「神」の奴隷とならずには不可能なのではないだろうか。
・私は何か物語を書きたく思っているのに、自分自身の考察ばかりたまる。ところでこういう物語を作ればいいのではないのか。私はカフカの文章がとても気に入っている。肩の力を抜き、哲学的な笑いで真面目さを爆破すること。しかしふとするとこういうのも使えるとか思ってしまう。結局、私が望んでいるのは、ニーチェがバッハとベートーヴェンについて語ったような哲学的真剣さと芸術的な美しさが一致するような形式なのだ。これはそのために無力さが表現されてしまうような形式なのだろうか。