風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

テロリズムに反対して

「学校と生徒の社会生活はまったくの形式主義と偽善でつらぬかれている。子どもたちは息がつまるほど退屈な集会を数かぎりなく催すことをおぼえた。その基準はきまって名誉幹部団というものが設けられ、親密な指導者たちにたいする賛美と、まえもってお膳立てされた、品行方正な討論がおこなわれる。そこでは大人のばあいとまったく同じように、考えていることとちがうことが語られる。形式主義の砂漠にオアシスをつくりだそうという生徒たちのサークルはどんなに無邪気なものでも恐ろしい弾圧を招く。ゲーベーウーは手先を使っていわゆる「社会主義的な」学校に密告と裏切りという身ぶるいするような堕落をもちこんでいる。より考えぶかい教育者や児童作家たちは楽観主義の強制にもかかわらず、学校環境に死をもちこむこの強制と欺瞞と倦怠の精神に面して時にみずからの恐怖をかくすことができない。」(トロツキー『裏切られた革命』)
「青年自身の問題を含めてすべての問題が代わって解決される。青年は実行することと賛美することが許されているだけである。いっさいの批判のことばにたいして官僚は頚椎をひねることでこたえる。青年層のすぐれたものと不従順なもののすべては系統的に駆逐されるか、おしつぶされるか、肉体的に抹殺されるかする。何百万というコムソモールのメンバーの中から有為の人間がひとりも生まれていないという事実はまさにそのことで説明される。」(同上)
「老人たちは青年にたいして熱っぽいしばしば追従的な言辞をはいているにかかわらず、用心ぶかく自分たちの独占権を守っている。」(同上)
「若い健康な肺にとってはテルミドール、すなわちいまだ革命の衣裳をまとっていざるえない反動と切り離せない偽善の空気の中での呼吸は耐えがたい。社会主義のポスターと現実の生活との許すべからざる不一致は公の諸規範にたいする信頼を失わせる。相当の青年層が政治蔑視、粗暴、放蕩を鼻にかけている。多くのばあい、いやおそらくは大部分のばあい、無関心とシニシズムは不満と、自分で立ちたいという秘められた願いとの幼稚な形態にすぎない。一方では、「白衛兵」や「日和見主義者」の、他方では何十万という「ポリシェヴィキ=レーニン主義者」の青年コムソールや党からの除名、逮捕や流刑―――それは左右を問わず自覚的な政治的反対派の源泉が涸れないことを証明している。それどころかこの一、二年間にそうした源泉が新たな勢いで噴出した。最後に、最も性急で、激しやすく、平衡感覚に欠け、自分の利害関係とか感情とかで屈辱を受けた青年たちはテロによる報復のほうへ考えを向けようとしている。これがソ連の青年の政治的気分のおおよそのスペクトルである。」(同上)
ソ連での個人テロの歴史は国の全体的推移の諸段階をあざやかに示している。ソヴェト権力の黎明期には、内戦の未終結という状況の中でテロ行為は白軍かエスエルによっておこなわれた。かつての支配階級が復活の望みを失うとテロリズムも消滅した。富農によるテロはつい最近までその余波が見られたが、それはつねに局所的な性格をもち、ソヴェト体制に反対するパルチザン戦の補足になっていた。最近のテロリズムはどうかと言えば、それは旧支配階級にも富農にも立脚していない。最近のテロリストはもっぱらソ連の青年層の中から生まれている。個人テロは目標を達成するのにはまったく無力であるが、しかし官僚と広範な国民大衆、とりわけ青年大衆との矛盾の鋭さをきわだたせる点で、徴候としてきわめて重要な意義をもつ。」(同上)