風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十七回目の爆発『評価の経済』

全員が一時"官僚"になり、それゆえなんぴとも官僚になりえないという事態への即座の移行」(レーニン)
・道具の能力とは評価をすることである。道具は3つの基準で人間を評価する。①単位によって②実験(戦闘)によって③コミュニケーションによって。ここから次のような検閲が生じる。すなわち計算できること、有効であること、理解し伝達できるもののカテゴリーに属さない事実の排除。これらの基準には常に「誰が?」が欠けている。評価の主体(つまり他者の欲望)は何を欲しているのか。存在することを。「評価されないのは死んでいると同じことだ」。いかにして公正な評価が可能なのか。結局上記の基準の濫用と不正な分子の弾圧迫害によって。基準の濫用は画一化をもたらす。評価は実際にはどう行なわれるのか。評価の対象の快不快によってである。数量計算は、不満分子や評価できない人間たちの排除を伴う場合にのみ意味を持つ。計算の行き詰まりは、方法の変更によってではなく「知性」によって判断されるように誤解される。ところでこの「知性」はどのような内容を持つのか。それは計算の行き詰まりを正当化し、その弊害を隠蔽する言説を作り出すことにほかならない。というのもそれ以外に「知性」を評価することは不可能だからである。嘘を暴くのはよりよく騙すためである。私の方が優位に立っているという感覚。したがって「知性」の作り話が見破られたなら快楽主義が帰結する。身体の快楽主義は苦痛の回避の計算を行なう。つまり死が最高の価値を持つことになる。
生活水準の向上は欲求の質と欲求を満たす諸手段の質を混同させる。道具は人間に剥奪の機会を与えるだけなのだ。たとえ評価システムが導入されても困ることは実際にはないだろうという不安。もちろん評価システムとは本質的に税を徴収するための方法論である。しかしだからといって、それに対する嫌悪感だけではそれに対する反駁にはなりえない。私は人間の主体の方が道具よりもより良いとかより正しく判断したり評価したりできると考えているわけではない。そうではなくて道具はそれがたとえ判断の道具であろうと、使用することなしに判断されることはありえないといいたいのだ。コンピュータにあるのは判断の擬装、つまりコンピュータが判断していると我々が判断できるような情報を可視化しているだけなのだ。たとえ実際にデータや説明が提出されても、それは我々を満足させたりうっとりさせる役割しか持ち得ない。(ちなみに、統計は「どこで」「誰が」「どのようにして」を隠すための常套手段であることは一種の経験的事実である)。ただし当然のことながら、コンピュータ自身の判断方法である数学的処理に関しては話は別で、これに関しては正しい量的判断を導き出すことができる。もちろん問題なのは、数量化されたデータからどんな判断を出すかについてはコンピュータは何も言わないということなのだが。コンピュータを「知っていると想定される主体」にしたいという欲望は非常に強いので、その目的に向かってコンピュータの技術水準が上昇することは我々にとっても有益だろう。もちろんそれで目的や意味は何ひとつ導き出されず、コンピュータ信者にとっては専門家を僧侶とするだけになるであろうが。コンピュータの技術水準が我々の生活水準に直結するというわけではない。それに我々が何を求めているのかはコンピュータの性能によって決定されるわけでもない。コンピュータの使用にどのような必然性も存在しない。とはいえこう言うだけでは、ただの悲観主義者にすぎないだろう。むしろ重要なのは、コンピュータによって画面のフリーズが恐怖とストレスの原因として究極の基準になることである。コンピュータの画面と我々の生活の断絶がこれほど明らかに表現される現象は存在しない。仮に人間が可視化された評価に隷属することになるのなら、電源が突然に落ちたり、点かなくなったりすることは恐慌の現象と同じようなものになるだろう。結局評価とは名誉と同じかその代用品のようなものでしかないのだろうか。ナポレオンは名誉のことをおしゃぶりと呼んだ。そこで我々はばぶばぶしていればよいというわけなのだろうか?我々は知られていないことを知られたいのか。それとも知られたくないということを知られたいのか。そうではない。私が知らせたいと思っているのだ。