風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十六回目の爆発『選別の教説としての悪循環』

現在の支配的ヘゲモニーを握っている者たちの生存条件にとって不条理で不可能な規範を打ち立て最大限度の搾取を行うことが問題なのだろうか。階級としても民族としても国家としても宗教としても個人としてもでなく心情の気まぐれによって。というのは、もし搾取が効率的なものにすぎないのなら、この心情は生産の奴隷であり、結局は経済的規範によって行動せざるを得なくなるからである。では国家をうまく運営すればいいのだろうか。しかしそれなら国家が存続することは最上位の課題となり、敵対集団や個人や国民を痛め付ける享楽が問題になってしまうだろう。そもそも生産の主体となること自体がすでにあらゆる効率性と経済的規範に対する反駁であるはずである。なぜなら生産することは決して生産的でも効率的でもないからである。それは一種の過剰にほかならない。したがって集団的ケースと個別的ケースの分離を想定することに意味はない。なぜなら生産することに応じてその両者が条件付けられるからであり、それはどちらが主人で奴隷であるかもまた規定するのである。では悪循環の道具であるコンピュータについてはどうか。コンピュータは判断することができないという決定的な事実。しかしだからこそ人工知能情報生命体とでもいうものが発明されるのだ。つまり判断する主体の道具。確かに情報生命体は存在することが生産されていると言えるかもしれない。情報は死ぬことがなく、生命は伝達されないにもかかわらず身体や行動や声の可視化によって。だが可視化によって世界を生産したとしても、使用する主体に感覚がないのなら、見ることの快楽あるいは苦痛しか生産することができないはずである。具体的には嫉妬の感情―――スクリーンに入ることができないということと女性の身体に接触できないということ―――である。だがこれは考え方が転倒しているのか、それとも制度自体が転倒を要請しているのか?両方であるように思われる。道具としてのコンピュータが主体性を奪ってしまうことは、厳密な意味で制度的な規範である。だからある意味では私たち自身が、情報生命体として自らを経験することで、スクリーンの世界から脱出しなくてはならないのかもしれない。現実の恐るべき空虚さの幻想を乗り越えてである。