風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

一四回目の爆発『生産物の系譜』

道具の生産の方法を人間に与えたのは神々であるのはなぜなのか。まず道具を神のように崇め、次に欲望し、最後には排除する。人間は道具の機能を模倣しているのだろうか。それとも道具の方が人間の能力を模倣しているのか。もしも道具が人間の奴隷であるのなら、道具は人間の能力に応じた形態をもって人間に使用されなくてはならないだろう。だがもしそうなら、人間は使用の能力を全面的に道具の方に依存していることになる。人間が道具の機能を模倣しているというのなら、道具はあらかじめ全知全能の状態で存在しているのでなければならない。だからそれを使用するのは神でなくてはならない。そもそも模倣するという能力を持つことはいかにして可能なのか。それは「神は自身の似姿を元に人間を作った」という言葉によってだ。もし仮に人間が神を作ったというなら、人間はそもそも何を模倣して神を作ったのかという問いに答えなくてはならず、それは神でしかありえない。神が自身を模倣して人間を作ったという言葉は神の創造と等しい。要するに模倣する能力を与えたのは神でなくてはならないのだ。人間の能力は使用する道具の生産に等しい。ところで道具は自らを生産されたものとして考えることができるのか。つまり模倣の道具というものは存在するのか。模倣の道具は、使用されることによって自身が模倣されているという事実を教えるものとなるだろう。神々を模倣する道具は芸術と呼ばれる。仮に芸術が模倣するという能力を道具として生産するとなれば、それはまさに神の道具であると言えるだろう。しかし、それが神の道具であるという解釈をするのは、模倣する道具であるのだが、その「模倣する道具」を生産するのは人間でしかありえない事実によって躓く。道具が道具を生産しても、それがどんな使用方法をするのかわからない道具は道具たり得ないからである。だから神の道具は存在しないのだ。ちょうど神である人間が存在しないように。だが神は言葉を使用した。言葉とは道具なのだろうか。言葉の意味は使用であるということから、言葉が模倣と生産のカテゴリーの一致点として機能していることがわかる。だから言葉を与えるのは神の能力なのだ。注意すべきなのは、言葉と言葉の記号は決定的に異なっていることだ。言葉が言葉の記号を模倣することは可能でも、言葉の意味を模倣することはできない。それにも関わらず意味を与えるためには、言葉の記号を使用しなければならない。言葉が人間の能力を規定するための道具として扱われるようになるのなら、人間は常にその言葉に隷属するような使用しか行うことができなくなる。だが言葉は何によって人間を規定するのか。意味によってである。それにも関わらず意味は使用によってのみ決定されるのだから、そこから言葉を破壊するような享楽的使用が生産される。逆に人間が言葉の記号を道具として使用するなら、言葉の意味は言葉の記号によって決定されるというトートロジーになる。言葉の意味を与えるのはいかにして可能なのか。言葉を理解する人格によってだ。もし人格が言葉の意味を生産するのなら、人格はあらかじめあらゆる言葉を理解していなくてはならないことになるだろう。だから人格は言葉を解釈するのである。人格の解釈は言葉の記号の使用に等しい。要するに言葉の意味を理解するためには人格がなくてはならないのだ。