風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十一回目の爆発『軍隊の問題』2

「カーター大統領は、このような理由から、アイゼンハウアーが一九六一年に行なった軍産複合体制を批判する演説を踏襲し、国民へのお別れの挨拶の中で次のように述べた。「狂気、絶望、所有欲、価値判断の誤りなどによって、この恐ろしい力が解き放たれるのは時間の問題にすぎないかもしれない。世界核戦争が生じるならば、第二次大戦の全期間を通じて経験されたものより遥かに大きな破壊力が解き放たれることになろう。すべてのミサイルが発射され、全ての爆弾が投下されるのに必要となる午後の長い時間、そのどの瞬間をとってみても、このことが現実になるのだ。毎秒ごとに第二次大戦が起きる計算になり、最初の数時間のうちに歴史上のすべての戦争における死者よりも多くの人間が死ぬことになるだろう。」(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画 知覚の兵站術』)
「第二次大戦の間に、初期の空中戦兵器からヒロシマの閃光にいたる過程で、作戦区域に代わり、戦場兵器の姿があらわになった。軍関係者の用いる戦場兵器というこの語は、たしかに時代遅れのものでありながら、あるひとつの状況を表現している。それは、戦争の歴史とはまず何よりもその知覚の場の変貌の歴史にほかならない、ということである。言い方をかえれば、戦争とは「物質的」勝利(領土獲得、経済支配)を収めることよりも、知覚の場の「非物質性」を支配することに成立しており、現代の戦争の担い手がこの知覚の場総体の侵入を図ろうとするようになると、ほんとうの戦争映画は必ずしも戦争やなんらかの戦闘場面を見せる必要がなくなる。なぜなら映画が不意打ち(技術面、心理面にわたる)をもたらすことが可能になった瞬間から、事実上それは兵器のカテゴリーに加えられることになったからである。」(同上)
「ブルジョワジーは最初の権力と階級としての性格を、商業と工業よりもむしろ(…)「決まった住所を価値(社会的通貨)として確立する戦略的定義から引き出すことになるだろう。」(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』)
「安全の必要性の分割不可能性の増大は、すでにロボット市民の新しい姿を描き出している。市民はもはや消費を通じて国を豊かにする市民なのではなく、まず安全に投資し、その防備をうまく管理し、最終的には消費を減らすと罰せられる市民なのだ。しかしこうしたことはすべて見かけほど矛盾してはいない。というのも資本主義社会は生まれたときから、その政策を恐怖からの解放と結びつけ、社会的安全を、消費や快適さと結び付けてきたのであり、その強制的な運動の裏面が、すでに見たように、社会的救済だったのであり、運動戦あったればこそ、無能な身体への廃兵扶助が、運動労働者の要求を通じて社会的一貫性を獲得したのである。」(同上)
「かつて土地を譲って時を稼ぐことを本領とした機動は、今日まったく意味のないものになってしまった。現在、時を稼ぐのはもっぱらミサイルや砲の仕事であり、領土は射出体のためにその様々な意味を失っている。実際、速度の非場所性のもつ戦略的価値が場所の価値に取って代わり、時の取得問題が領土の所有問題の性格を一変してしまった。(…)火器の破壊力と、運動車両の浸透力の区別が、その「有効性」を失う傾向にあるのだ。超音速飛行体(飛行機、ロケット、電波列)の出現によって浸透と破壊は一体化し、距離を置いた行為の同時性は、襲われた敵の壊滅、そして何よりも、戦場や距離や物質としての世界の壊滅に一致する。」(同上)
「「輸送革命は」十九世紀に恐怖を産業化したといえる。エンジンは恐怖を生産するのである。」(ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン』)
「AVメディアと自動車(すなわち走行光学装置)のあいだにもはやちがいは存在しない。両者はともに速度の機械であり、速度を生産することによって媒介する。両者は一体となる。というのも、目の機能と武器の機能は、輸送革命のときに合体し、つながったからである。」(同上)
時間の長さは強度によってはかられるだけだから一時代の技術のあり方をもっとも意味ぶかく反映する産物は距離である。そもそもこのことは最近の生産様式の変化が立証していることである。おそらく現代におけるもっとも重要な―――しかし一番気づかれることが少ない―――生産物とは世界の終末の生産である。」(同上)