風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

六回目の爆発『資本の死と人格記号ネットワーク』

「資本は死んだ―――わが紙幣、わが紙幣、どうして私をお見捨てになったのですか?」「残念ながらこれらの事変は高所から、つまり紫電のようにくるのだ―――」
つまりコンピュータから来ると言うことだが、人格記号ネットワークはどのように導入されるのか。そのために必要なのは産業社会によって人間が功利的に画一化し、道具による数量化が可視化されるようにならなければならない。その評価はいまや貨幣となった人間の「潜在的可能性」によって評価されるのだが、これにはどのような本質的な意味も存在しない。だからそれでこのシステムを導入しても無害だと考えるのならそれは確実に間違っている。そのような判断基準は統計的理想と同じように必ず人間の画一的な形式化を要求する。数量化が必要なのは人間を流通させるためだが、その代価は人格が効率性によってしか表現されなくなることである。ただしここで注意べきは、言葉あるいはあらゆる表現一般とは効率化であるということである。芸術だけは例外であるなどと考えないようにしてもらいたい。二十世紀の政治的教訓を学んだ者なら、誰でも芸術は情欲の効率的な操作に大いに役に立ったということを知っている。多かれ少なかれ表現は効率化を含む。もちろんこの文章もそうだ。ただし効率化の差異は記号と記号の略号化とのあいだにあるということは覚えておいた方がいい。「最初に女性の身体に魚のひれを付けたのは詩人だが、二人目は官僚だと確信している」。ところで人格記号ネットワークとはどのようなシステムなのか。それは道具の数量化による神託によって自身の人格記号が決定されそれに対応する勤労と責任の義務を負うシステムのことである。このシステムの資本制との最大の違いは欲望の対象としての貨幣を多く持っていればいるほど、その人格記号の価値が下がるという点にこそある。潜在的可能性はあくまで人格記号が保持しているのでなくてはならず、貨幣のような媒介物があってはならないのだ。つまりそれは借金としてマイナスの記号として扱われるか、純粋に計量のための手段として利用されるのかのどちらかである。ところで市場と同じくネットワークは神聖かつ公正でなくてはならないが、どう考えても不正な操作は可能である。つまり潜在可能性を計量的に変更すること。もちろんこれは計量可能だからこそ操作できるということを忘れてはならない。