風鈴神社

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六回目の爆発『資本の死と人格記号ネットワーク』2

人格記号の潜在可能性はどんな意味もないのなら、それはどんな価値があるのか。生産性があるのである。つまり可能性の軽量化は生産性の効率化に貢献し、その貢献度によって税が支払われるということである。税制は尊厳税―――つまり潜在的可能性に応じて決まるのだが、計量が完璧であるということはもちろん想定でしかない。これを表現すると「システムはつねに進歩している」というあいも変らぬ進歩信仰となる。評価方法は数量化可能であれば恣意的な基準であってもかまわないのだからいくらでも税制をかいくぐる方法はある。しかし問題の本質は人格記号ネットワークが、私たちの潜在的可能性を奪っているという形式で経験化されることにある。これはいつもの禁止の欲望であり、体制が破壊されればいつでも自分は欲望を行使することができるという信仰である。人間に潜在的可能性というものは存在しないし、かつて一度でも存在したことすらない。それはただ単に数量化されているだけだ。人格記号の評価方法は「潜在可能性/潜在可能性の変動性+評価可能性/評価の変動性を各人の人格記号の維持コストで割った数値となる。この場合神託をくだす人格記号ネットワークの価値は、各人の人格記号を包括しているから、すべての人間の可能性をすべての人間の維持コストで割った数値となる。人格記号ネットワーク内の人間の行動は、自身の潜在可能性に投資をして利潤を得るという風に表現される。この場合貧困とは潜在可能性に対して投資を行なう事ができない全ての場合だということになる。ただし当然利潤は潜在可能性が大きければ大きいほど高いことになる。支払いは貨幣ではなく評価とサービスであり、人格の尊厳が最高の価値とみなされる。またこの場合でも潜在可能性や投資方法について恣意的な操作が可能なことは言うまでもない。人格記号の効率性を維持するためにはネットワークの評価が神聖かつ公正であるか、またはその評価によって享楽を行使できる場合に限られる。つまり貧困に対する軽蔑を表明すること。ここから階級構造と永続的な不満が発生する。人格記号ネットワークに対抗するためには、人格記号に対する評価を外在化する必要がある。つまり欲望の禁止を潜在的可能性の排除に移行させること。人は効率性に従って行動するのではなく、効率的に行動できるようにならなくてはならない。そして最後に付け加えるのなら恋愛はどんな場合でも効率的ではなく、どんな場合でも生産性を阻害する可能性がある。あなたがもし人格記号ネットワーク自体を愛するなら、それだけで一切の評価基準も価値判断も破綻するであろう。ネットワークは愛を認識できないからだ。