風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

けめくじ氏の『書き込みと引用』について4

芸術を創っている人間が狂っていないことを証明するためには、絶えず社会的な自我を表出して自身の正気をアピールしなければならない。社会的次元で狂気を表現した場合、それがたとえ真剣なものであったとしても、社会は自己を防衛する為に狂気の烙印をその個人に押さざるを得ないだろう。社会はディスクールから外れた狂気の身振りを区別することはできないからだ。それがたとえ狂気を実現すると言っている狂人であったとしてもである。ヘーゲルマルクス主義、あるいはフロイトラカン主義や国家主義や医学的なディスクールは、その言説の権力が、社会的な身体に直接ヘゲモニーを行使するが故に有効であると見做されるのであり、それ以外の衝動を社会外の領域に放逐してしまうのである。没落や病気は直接そのディスクールの正しさの証明として「理解」されるのだ。フーコーが絶えず言っているのはまさにこのことである。ところでもし私がこういった文章をここに載せれば、再び理性の審級に判断をゆだねることになるだろう。ただしそれは「書き込みと引用」のブログが私のものではなくなったという意味においてだが。それは生きた貨幣を生産するための装置、あるいは他者となった。だがすでにこのこと自体が「書き込みと引用」において予告されていたとするならばこの文章はどんな意味を持つのか。もはや理性的な次元では「書き込みと引用」のシステムにはいかなる首尾一貫性も成立しないだろう。書けるとしたら、それは新しい作品であり、「書き込みと引用」をなかったことのようにして始めるしかない。いかなる意味でもこのブログ自体で「私」の文章を書くことは成立しない。もし「書き込みと引用」に何か付け加える意味で新しい文章を書くとすればそれは小説のレベルまでリアリティを低下させることになる。正確に言うとこの文章は余計な沈黙なのだ。だがこの余計さは、私の無知を示す文章としてどうしても必要だったのだ。

思考実験の方法論 - 書き込みと引用