風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

思考実験の方法論

「(…)ニーチェの方法論にこうした錯乱の口調だけを見出そうとすることは、とりもなおさず、彼の思考によって疑問に付された数々の審級の、その権威に依拠しようとすることにほかならない。彼の思考はこうした審級を攻撃しようとしたことにおいてすでに錯乱していたか、さもなければその透徹した洞察力を駆使しながら明晰さの概念全体に直接攻撃をしかけたか、そのどちらかというわけである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「(…)もしもニーチェがこの予感の眩暈に襲われなかったとしたら、彼はあるいは、自分のメッセージの意味を不動の哲学体系の意味と混同する危険を冒してしまったかもしれない。しかし彼の頭上にはダモクレスの剣が光っていた。いまこの瞬間にもお前は痴呆に襲われるかもしれず、そうなればお前が語った正しいこと、真正なこと、本当のことのすべては精神障害の烙印を押されてしまうだろう。こうした脅威の名において、ニーチェ精神障害すでに完了した事実として認めてしまう。彼にのしかかる脅威は、彼自身の策謀に、あるいは彼自身の天才になる。あらゆる事実の基底であるものを、壮大なものの形で表現しよう。というのも、その基底がとらえ難いものであると宣言すれば、われわれは便利な不可知論の信者に見えてしまうだろうから。そうした不可知論は、人間の行動も、道徳も、生の形態も、何一つとして変えることがない。逆にわれわれが詐欺師道化師の言語を話したら、事情はまったく違うだろう。だからわれわれはこの不条理なことを言う。すべては回帰する、と。」(同上)
「(…)ファンタスムが、各人にとって、各人を個別的ケースたらしめるものであるとするならば―――集団的グループが与えようとする制度的意味から自分を防御するために、個別的ケースはシミュラークルに助けを求めずにはいられない。シミュラークル、すなわちみずからのファンタスムに当てはまる価値を持つもの―――同時に、個別的ケースと集団的普遍性とのあいだの不法な交換にも、当てはまるもの。しかしその交換が不法なものであるのは、集団性も個別的ケースも、両者がそのように望んだからにほかならない。個別的ケースは、自分自身のありのままを意味するやいなや、個別的ケースとしては消滅する。個人の中には、彼の理解可能性を保証するような、そうした種のケースしか存在しないのだ。しかし個別的ケースは、自分自身に対して自分のファンタスムを言語化するやいなや、個別的ケースとして消滅するというだけではない。というのもそのような言語化は、制度化された記号を介してしかおこなうことができないからだ。―――それだけではなく、個別的ケースは、それらの記号によってみずからを再構成するときに、彼のなかで理解可能となったもの、交換可能となったものから、同じ仕草でかならず、自分自身を追放してしまうのである。」(同上)