風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

引用の書き込み

「浪費や狂気は全体としての集団においては正常なものである。そうでなければ個人の意向に従うことになるからだ。集団性の保持のためにはより少数のものを犠牲にするということはこの観点から導き出される。集団、あるいは人類としての種は粗雑な誤解であり、個人とはもっと繊細な誤解、種のにやってくる誤解だということ。私たちはなぜ有益な行動をとらなければならないのか。生きるためか。しかしそもそも生きるということが狂気としての、あるいは浪費としての性格を持っているのではなかったか。有益な行動しかとらないのであればそこにどうして意味が生じるのか。我々が神の奴隷であるという観念は、有益な知識を価値判断の最上位に置くことからでしか説明できない。つまりなんらかの知識に従って行動する、あるいは行動しようとするかぎり、私は知識の有用性の奴隷であるという不満。考え方が逆なのだ。そもそもいかなる束縛もないがゆえに不安が生じるのであり、そこに意味や有用性を見いだして、自分が奴隷にすぎないと考えたがっているのだ。そうすれば不安は不満であり続けられる。「去勢されるよりは禁止される方がまし」。」(けめくじ『書き込みと引用』)
「あらゆる固有名が「私」なのだから、「汝の隣人を汝自身のように愛せ」は普通のことである。あるいは一切が集団的な匿名の記述として考えられるのと、あらゆる匿名さが「私」の個別性を表現するということ。したがってあらゆる物語や科学的説明は「私」の価値を注釈し説明するためにある。しかしこれだけではまだ科学のディスクールを越え出てはいない。あらゆる固有名と同一性は交換可能なのだから死はありえない。集団的ケースと個別的ケースの区別が消失する地点。しかしそこに強度と意味をなお付け加えるためには、あらゆる「私」が実験の自由のために浪費されなくてはならず、あらゆる「私」が精神錯乱によって狂気を実現するのでなくてはならない。したがって「私」が商品として生産されなくてはならず、それが「私」によって支払われなくてはならない。そこで私が私を享楽の対象として破壊し、私が救世主となってあらゆる私を再び救わなくてはならない。そこであらゆる可能な私が私のあらゆる物語をあらゆる私として反復し、私が同じ形式のままで私として回帰してこなければならない。このような私の明晰さは私によって解釈され、私という人格として私を認めるのだ」(同上)
「神になった気分はどうですか?けめくじさん」「じめじめしている」