風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

忘却の明晰さとしての永劫回帰2

・生きた貨幣の状態は永続的な状態として存在するのだろうか。それとも瞬間的な生成にすぎないのか。それは目標であり、批判されるべき対象であり、使用される価値であり、享楽として破壊される対象なのではないのか。もしあらゆる人間が生きた貨幣になるのなら、あるいはそう信じられるのなら、まだ人格記号としての症候にはっきりと方向付けてはおらず、何にでもなれる可能性を持っている「普通の人」が価値が高いことになるのではないのか。つまり常に乗り越えていくという意味で不安定なのではなく、決心がつかずに悩んでいるような不安定さに価値が与えられるということではないのか。キャラクターが悩みだすというわけだ。一旦症候としてのキャラクターが自身の存在を錯誤として認識するのなら、キャラクターは錯誤の余地のないような肉体の感覚を求めだす。ところで肉体の感覚とはまさに快楽の明晰さそれ自体ではないのか。たとえキャラクターが身体を持った人間の症候をのっとって自分だけがその身体の唯一のキャラクターであるように振舞うのなら、普遍的な記号としての役割を持つことができなくなる。肉体を備えたキャラクターは、自身が統一性を持った人格だと誤解するようになる。つまり解釈への恐れが生じるのである。キャラクターとは解釈によって行動の強度を与えられた意味の束であるにもかかわらずである。
・同一物の永劫回帰。ただしそれは反復だと意識するような反復であり、同一物だと理解しているような同一物である。しかしこのような記述自体が忘却されるのでなければ、それは回帰すると言うことができない。したがってこの考えは明晰さによって合理性を破壊するための不調和を増加させるための戦略の一つであり、それ自体としていかなる正しさも必然性も持ってはいない。
一度限り決定的にある生を偶然的ケースとして扱うことであらゆる可能性を考えること。ただしこのように反省するという行為自体がまた一度限り決定的にという形式を再導入する。したがって自身の生にどのような必然性も一回限りの経験もないという解釈と、自身の生があらゆる偶然的ケースの解釈にもかかわらず一度限り決定的にという解釈が激突する。だからこそ自身の同一に繰り返された生を無数に反省するという形式で、自身の生が意味を持つのでなくてはならないのだ。その生が一度限り決定的にという性格を持つのは、無数の偶然的ケースを反省として経由したことから生じる強度においてほかにない。だがその強度はいかに伝達されるのか。その一度限り決定的な強度もまた、他者にとっては一つの偶然的ケースにすぎず、その強度を保証するのは他の無数の偶然的ケースにおける強度の反復の反省によってでしかないというのに。だからそのような反省が行なわれたことの忘却を無数の反省によって得られた明晰さによって実行しなくてはならないのだ。だからすべては同一の形式のままで回帰する