風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

見えない女性

「産業が、みずからイニシアティブをとっておこなうことすべての原則としているのは、あらゆる人間現象は、あらゆる自然現象と同じ資格で、経済的に利用可能な素材として扱うことができる、したがって価値の変動に、ひいてはあらゆる実験の偶然従属させることのできる素材として扱うことができるということである。暗示の力から出発して考えられた情欲の、精神的にして同時に動物的な性格にしても、事情は同じである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
消費可能な商品がどのようなものであるかは、ただその商品の道具的使用によってにみ明らかにされる。消費可能な商品は、普通の感性には決してできないようなより良いやり方で強固な快楽を与えてくれるのだが、それと同時に道具として扱われる商品は、手には決してできないようなより良い別の方法で道具の使用方法とその効果を知る。というのも商品は、その製造方法と、使用可能な享楽の時間的価値(反復可能性)によってのみ定義されるからである。この場合、道具が命を持っているか持っていないかは関係ない。生きた商品、あるいは生きた貨幣の場合は、道具についての迷信、つまり道具の使用価値が表現されているときにのみ、それは商品として自らの魅力を発揮することができるという事実を、人格の使用価値として短絡させることで魅力を維持することが可能になる。ただし人格を純粋な使用価値として提示できるのはやはり生きた貨幣となったものだけであり、労働力を使って道具や商品を生産したりすることを人格の代替物として自身の人格と区別しようとする限り、自らの商品価値と商品の使用による快楽の享受は分離したままである。自らの人格を単に商品としてではなく貨幣として流通させるためには、人格を他の感受性を持ち人格を価値評価できるような存在に対して分け与えるのでなくてはならない。なぜなら、ただ与えるだけの場合では、人間はそれを隷属のための戦略と見做し、その受け取りを拒否するからである。ところで人格を分け与えるとは、感受性を持つ人間の人格を、その人格ではできないより良い方法で快楽を与えるという口実で、破壊するということである。それは元の人格が与えられた人格を享楽するというやり方で人格を徐々に消費していくという方法で行なわれる。さらに分け与えるとは、まさにその与えられた人格でほかのものとのコミュニケーション手段を確立するという意味でもある。一方的な人格流通ではなく、人格同士による人格流通こそが、より良いやり方で人間の元の人格を消費し、与えられた人格を再生産する感受性を持った道具を製造するのだ。