風鈴神社

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吉本隆明『芸術的抵抗と挫折』

「思想的に理解すれば、日本の絶対主義権力は、庶民に対しては「封建制の異常に強大な諸要素」を前面につき出して飼いならし、コミンターン・テーゼを至上の要請とした「前衛」にたいしては、「独占資本主義のいちぢるしく進んだ発展」を前面につき出して、その自己意識を幻惑させたということができる。こういう事情のもとで、「前衛」の意識におこったのは、政治意識と生活意識との矛盾であり、庶民の意識が自然成長のままつかませられたのは、後進国意識としてのナショナリズムの問題であった。しかし、日本におけるナショナリズムが、後進国民族主義に終始せず、侵略的方向に結びついて行ったのは、このような庶民意識のナショナリズムの欲求を、絶対主義権力が、その、「独占資本主義のいちぢるしく進んだ発展」の側面から利用したからにほかならない。」
「しかしここで注意しなければならないのは、日本の庶民意識の表現は、かならずしも積極的な戦争協力の意志としてしかあらわれえなかったものではなく、退化した情緒の表現としても成立しえたはずにもかかわらず、これら「前衛」的詩人たちは、ほとんど例外なく積極的な戦争協力の場面を素材として撰ぶことによって、「超」絶対主義体制の「前衛」としてもかなり巧みに適応しえているという事実である。この事実につきあたったところから、ふたたび日本における芸術的抵抗と挫折の課題は、あたらしくその出発点に向かって循環しなければならない。」
「問題は、日本における「封建制の異常に強大な要素」と「独占資本主義のいちぢるしく進んだ発展」との結合という意味を、たんなる結合と解するか、楯の両面のように不可分の単一体系と解するかを、具体的な芸術思想として、また政治思想として見出すことにかかっている。三二テーゼは、多分に、この結合をたんなる結合と理解した傾向があり、また反対に絶対主義権力は、結合の両面を、巧みに使い分けた。芸術的抵抗としてのプロレタリア芸術(詩)の挫折の事実が、今日もなお暗示しているたいせつな問題点は、本質的なところでうけとめようとすればここに帰着するようにおもわれる。」

補足として
「「社会的な現実は、詩にとって単に素材や風俗感覚の材料であるが、または内部意識によって再構成されるべき意味であるかによって、社会的な現実の変化が詩運動にあたえる影響の仕方はちがってこなければならぬ。(略)この間(日本の「擬似近代社会」の崩壊期である昭和三年から八年まで―――引用者注)に、モダニズム詩派は、日本の資本主義のメカニズム美の賛美者としてあらわれ、資本主義の危機とともに美学的な衣裳をはぎとられ、裸の都会庶民の情緒的な表現にまで衰退していったのである。まず内部世界のつよい裏付けがないために、超現実的な手法が、メッキをはがされて春山のいわゆる「コトバの芸術性」が第一義的な意義をうしなった。つぎに社会的な情勢が、統御された倫理のワクをかけられた結果、素材としてあった都会の風俗が、感覚として色あせてみえるにいたる。あとは詩の表現によって検証されなかった中層庶民インテリゲンチャの内部風景の情緒的な意味しか残らなかったのである。」ここからは、大戦下に戦争詩を量産した「四季」派まで、ほぼ直線的な経路しかありえなかった、と吉本は批判している。」(笠井潔『物語のウロボロス』)