風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

いかにして「真の世界」が最後には寓話となったか―――一つの誤謬の歴史

1 賢者、敬神家、有徳者にとっては到達される真の世界、―――彼はこの世界のうちで生きている、彼はこの世界そのものである。(理念の最も古い形式であり、比較的賢明で、単純で、説得力がある。「私こそプラトン真理そのものである」という命題を書き変えたもの。)
2 賢者、敬神家、有徳者にとっては(「悔い改める罪人にとっては」)、今のところ到達されえないが、しかし約束されている真の世界。(理念の進歩であり、理念は、いっそう繊細に、いっそう油断ならないものに、いっそうとらえがたいものになる。理念は女となる。理念は、キリスト教的になる・・・)
3 到達されえず、証明されえず、約束されえないが、しかし思考されたものとしてすでに一つの慰め、一つの責務、一つの命令である真の世界。(根本において古い太陽であるが、しかし霧と懐疑をとおしてみられている。崇高となった、青白く、北方的と、ケーニヒスベルク的となった理念。)
4 真の世界は―――到達されえないのか?いずれにしても到達されてはいない。そして到達されていないものとして未知のものでもある。したがってまた、慰めの、救い、義務づけるものでもない。どうして何か未知のものが私たちを義務づけることができようか?・・・(明けそめた朝。理性の最初のあくび。実証主義の鶏鳴。)
5 「真の世界」―――もはや何の役にも立たず、もはやけっして義務づけすることのない一つの理念、―――無用となった、余計なものとなった一つの理念、したがって一つの論駁された理念。私たちはこの理念を除去しよう!(明るい午前。朝食。良識bon sensと快活さの復帰。プラトンの赤面。あらゆる自由精神の悪魔の喧騒。)
6 真の世界を私たちは除去してしまった。いかなる世界が残ったのか?おそらくは仮象の世界か?・・・だがそうではない!真の世界とともに私たちは仮象の世界をも除去してしまったのである!(真昼。影の最も短い瞬間。最も長いあいだの誤謬の終焉。人類の頂点。ツァラトゥストラの始まりINCIPT ZARTHUSTRA)
ニーチェ『偶像の黄昏』)