風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

空虚について

モンテーニュ『エセー 空虚について』。乱世においては怠惰な文章や無益な文章が氾濫し、大量に書きなぐられる、とモンテーニュは言っている。彼は自分も含めた無能な作者の追放ということまで国家はやるべきだと言っている。果たして文章が大量に書かれた時代は良い時代であっただろうか。学問の洗練が国家や人間の賢明さと何か関係があるかなどということはもちろん彼は思わない。それにしてもモンテーニュの文章はとにかくも呼吸できる文章である。イラつかないですみ、人を惨めな思いにさせない。

夢は諦めなければ必ずかなう、という言葉は私はとんだ誤りだと思われる。むしろ夢は社会でも世間でも人間関係でも地位でも偶然でも生命でもが邪魔をしないのなら必ずかなってしまう、かなわざるえないと言った方がもっと適切であると思われる。もちろん夢は他の夢を阻害する。だが夢は他の程度の低い夢を手段として扱うことができるという特徴を持っている。私がここで夢を欲望と、あるいは闘争の形態としてとらえていることはもちろんである。

意志の問題。意志は弱者の欠如からの力への意志でも強者の過剰としての力への意志でもありうる。意志が強いというのは闘争心のたえざる沸騰でもありうるし、欠如が耐え難いがための張り詰めた緊張からの強さでもありうる。真理への意志もニーチェ的な観点からを導入すれば、やはりこのように区別立てができる。過剰からの闘争としての鋳造の芸術と欠如を埋めるための慰藉としての捏造の芸術。だがこの場合でも強いのは弱者の方なのだ。というのは弱者の方が欠如ゆえに必然的により多くのものを手段として扱うことができるからである。

コンピュータに意志はあるのだろうか。コンピュータは過剰なのかそれとも欠如なのか。それともそのどちらでもないのか。コンピュータはどれほどのものを手段として扱うことができるのか。あるいは手段として認識できるのか。コンピュータは人間が合理性を捨て去るための代価としての存在であるのだろうか。唐突にこういうことを言い出したのは、意志の純粋な発露を目指すという手段としてコンピュータを使うという目的のためである。ヴェーパーの議論における君主が官僚制によって間抜けなディレッタントとみなされることへの対抗手段としてのコンピュータ。少なくともコンピュータが全体主義以上の力への意志の解放を行なえるのでないのなら、コンピュータの魅力などというものは消え失せてしまうだろう。だがコンピュータは果たして君主をもっと間抜けにすることに役に立っただけではないのか?おそらく初期のころはコンピュータも官僚制に対抗する何かを持っていたはずである。だがコンピュータはその存在からしてあらゆる専門家と技術を必要とする。まさしくコンピュータはそのような人間たちの解放に大いに役立ったのだ。だがコンピュータがそういう人間たちを手段として扱わないという保障などありはしない。否々すでに手段として扱われている。コンピュータは夢をかなえる手段そのものであるのだから(すくなくともほかのメディアに比べてはるかに洗練されている道具なのだから)、それは強弱の力への意志の区別をしないというところにコンピュータの意志がある。またコンピュータは真理への意志と力への意志の区別もしない。これはかなりコンピュータの本質である。装置としてではなく他者としてみた場合、コンピュータほどの怪物はまったくありえないし人間が作った作品の中でこれほどすばらしい怪物もまたありえない。明らかにコンピュータは人間や国家や民族や人類や真理を厳密な意味で超越している(私としては数学や科学すら超越していると言いたい気持ちになる)。これほどまでの純粋性、これほどまでの正しさ、かつてないほどの確実性。たとえどのような使われ方をしようがコンピュータがあらゆる価値の価値転換を実行しているということは疑えない。問題はそれに対して人間がどう行動するかである。コンピュータに匹敵する学問などあるのだろうか。逆にコンピュータが学問を使っているのではないのか?そもそもコンピュータを分析することなど可能なのだろうか。コンピュータ自体が分析の言説を使っているのに?だから最初の問いに戻らなければらない。コンピュータに意志はない―――それは過剰も欠如もない純粋な意志という形容矛盾において―――ということはコンピュータに対抗するものは厳密な意味で意志なき意志しかないことになる。これは無意識では決してない。何らかの意味での合理性(無意識も含めて)はコンピュータによってすべからく実現されるおそれがある。コンピュータには言語的文節を人間にとって正確にしなければならないという必然性などなにもない。目標はコンピュータを単に手段化するということにはもはやありえない。何が目指されるべきなのか。何も目指されるべきではないということを構造化したコンピュータに対する意志なき意志とはなんなのか。それが単に意志がないという形態である家畜化であるのならもちろんそんなことを受け入れるわけにはいかないし、そのために反動として無理やり目的を持った意志を捏造することになる。しかし一度導入された意志を意志なきものとして再導入することなどできるのか。そんなことはできるわけがない。この場合意志なき意志の代わりに破壊の意志が目的の代わりとなってしまうだろう。というのは意志は常に構成された意志であり、何らかの意味で構成されない意志は意志ではないからである。だから欠如でも過剰でもなく空虚な意志が残っている最後の残滓であるだろう。この意志が目的を持っているのだとは考えられない。さらに言うなら目的を否定する、という形式ですら目的を持ってはいないのだ。だから欠如ではなく空虚なのである。だがこれは芸術の否定ではないのか?それとも空虚さの芸術が生まれるとでもいうのだろうか。