風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

哲学のうわごと繰り言独り言

「老年は青年期の夢を実現する。スィフト(Swift)がそうだ、彼は若いころ精神病院を建て、年をとって自分がそこに入った。」(キルケゴール『これか‐あれか』)

ダグラス・アダムスの「ほとんど無害」で登場した家の内装と外装が反対の家に住む家の内部にいる人間はみんな狂人だと思っている狂人のように語ろう。

第一級のけめくじ主義者として偉大なじめじめさをじめじめじめじめと感じる。けめくじは反芻生物である。

ニーチェ主義者としての第一条件とは持ちこたえるということである。

どうして早くおくたばりにならないのですか?なぜ依然としておくたばりにならないのですか?

孤独とは、多数との共存に対する手段である。

私自身が大衆でないのなら、なぜ大衆を批判するのかわからない。大衆でないのなら利用するなり管理するなりすればいいだけだからだ。

「人を殺してはならない」というキリスト教倫理が乗り越えがたく思えるのは、殺すという概念の区別に基づいている。キリスト教の普遍的な「法」は人間を殺してはならないということに、つまり人間を規定するところに法の重要な機能がある。孔子のように動物と怪力乱心について語らずというのは賢明な態度であった。キリスト教は明白に後者について語っている。問題はこの「殺してはならない」が乗り越えられるということは必然的に人間は動物だということ、つまり人間を殺すことと動物を殺すこととの区別が消えてしまうというところにある。キリスト教の法の内容を具体的形式で埋めずに「人を殺してはならない」にとどまるというのは必然的に錯乱をもたらす。法を具体的な内容で埋めたとたん優生学的な概念が台頭することになるが、逆にそれをイデオロギー的否認で支えるというのは耐え難い腐敗をもたらす。法なき規律化こそ家畜化だからである。普遍的な法に代わって個別的な法を導入するというのは「人を殺してはならない」という倫理をその不可能性において擁護するということを意味する。しかしここにも二通りの法がある。第一は自らを絶対者として認める至高の傲慢さとしての法であり、もう一方は自らを存在しないとして消去する白痴としての法である。この両者のどちらが悪いかは甲乙つけがたい。傲慢さの法はそれが気まぐれな恣意に依って左右されるという危険さがあるが、絶対者が少なくとも有能であるかぎりはそれはうまく機能する。白痴の法はどんなことがあっても法を定立させないという道化の身振りを行なうが、それはただ相対的混乱を法に依っていっそう生み出すという無気力の危険性がある。しかしそれは同時に人間的な自由を受け入れるための余裕も生み出すのだ。

ニーチェの錯乱とはこの傲慢さと白痴の法の二重性を受け入れるということを意味する。つまりツァラトゥストラとは傲慢な白痴なのだ。問題はこの二重性が維持可能であるのか、可能であるとすればどのような形態でかということにある。それが政治的に無力である限りこの形態は一般的価値を持ちえないだろう。だが一般的価値を持つべきだといえるのか。もちろんこの一般性は一般性なき一般性であるのだが、それをあくまで傲慢に保持しかつ白痴的に相対化し続けなくてはならない。だからこそ精神錯乱とともにすべては回帰する。精神錯乱の法の回帰として。