風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「グラスリップ」のようなアニメはいくら尊敬しすぎても尊敬しすぎるということはない2

官僚制化に反対するということは今日の交通文化、つまり旅行や電車などの輸送機関、コンピュータによる電子化と自動車専用道路、ありとあらゆるコンビニやショッピングセンターなどに反対するということに等しい。我々の見ているあらゆる町並みと景色が破壊されるのでなければ官僚文化に反対するということにはならない。コンピュータ内部に町を作るという試みも、それが完全に合理化された技術文化だということを考えればなんの解決にもなっていない。決定的なのは、断絶することであり、隙間を作るということであるが、それが現在の文化の全面的破壊をもたらすということは正しい。コンピュータによって人類の絶滅であろうが暴力手段の行使だろうがゲーム化されて合理的な利益に変換されるとき、そのようなゲーム化、シミュレーションに反対するような暴力というものはありえるのか。問題は一つの文化の合理化が官僚制を産みだすのだとすれば、その合理性を自己破壊する以外に合理化に反対する方法はないのであって、人々が非理性的に感情的に行動することが問題であるわけではないということである。資本主義による腐敗はこのことに対抗するための一手段であって、資本主義が官僚制を促進するとしても資本主義がなくなれば官僚制が支配するということは予想できることである。よって資本主義が戦争を促進することはある意味的を得ているのであって、そう簡単に否定しきれる行動ではないことになる。我々はいったい何を望んでいるのか。フロイトにならって「主人である。ただし、自分が支配できるような」と言ってみるべきだろうか。このことの帰結はますます骨抜きにされていく主人と、洗練化が行き着くとことまで行き着き、滑稽さと俗悪さを併せ持つような憐れな汚物になることであろう。インターネットに希望を託すというのは、合理化をさらに早く正確に促進するということであり、そこには夢も希望もありえないロボット達が生産されるのが関の山だ。商品の条件反射的な消費があるだけにすぎない状況で、新しい文化とは何なのか。文化とはテクロノジーであるという考えから抜け出すこと。普及ではなく拒否を本質とした非生産性を対置すること。殺人と連帯の文化から死と孤独の文化を始めること。あのきらきらと光る透き通った孤独を「理解」するのでなく感じること。限りなく近いと同時に限りなく遠い親密さというものを獲得すること。遠さを、悲しみを、喜びを、ふれあいを、何かに記述されるということなく、そこに当たり前にあるような風景であるかのように凝視し、決して存在せず、何かがわかるということでもなく、あくまで理解することの下品さを包み込むような孤独で抱擁し、決心をすること。それがたとえあらゆる犯罪を認めることになったとしても平和主義ではなく孤独からそれに反対すること。それがどういうことになるのか、私にもまだ分からない。