風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

マックス・ウェーバーの独裁者5

「では結局あなたはナチを擁護しているのですか?」そうではない、と答えたいところだが、私の答えはマルクス主義や人道的に見た場合にはナチを擁護しているということにならざるをえない、ということにある。これは実際のところ現行秩序にとっては同じことであるだろう。しかし私の立場ではそれは違うのだ。つまり私の態度はマルクス主義者や人道主義者から見てナチと大差ない言動を主張しているということになるのであり、厳密な認識論的差異ということになる。私は永井均の言うようなルソー的人間ではないからだ。私は人種差別的な社会を望んでいるわけでは決してない。しかしだから私が差別的でないということにはならない。私自身の立場としては人種差別は胸糞悪くなるが、だからすべての人間の価値が平等などということは御免被る。(このことは他人と対等に振舞わない、という意味ではぜんぜんない)。私は人間の権利の平等なら認める。この点で私はウェーバーの政治についての定義を厳密に尊重する。マルクス主義や人道主義はこのことを決して語らない。実際はこのことに基づいているにもかかわらずである。簡単に言えばエリートと落ちこぼれの対立というのはマルクス主義や人道主義には決して入ってこない対立構造のひとつなのだ。プロレタリアにはプロレタリアの階位があり、人道主義者にもそれは然りである。こういうことほど通俗的に重要だとみなされていることはないのではないかという問いには、この対立こそがナチズムマルクス主義が大衆を動かす原動力だということを忘れているのだ。おそらくこの対立構造において成功するということほど原動力となる価値判断は何もないだろう。成功というものが何か偶然のチャンスをつかむようなものではなく、その人間の生き方にとって偶然他人に評価されるというものであり、したがって成功とはその人間にとっての誤解であり誤解以外のなにものでもないとしてもである。なんらかの主義が権力を持つことができたのは、それが今まで成功できなかった種類の人々に成功させるような機会を提供したからにほかならない。別に権利があったからというわけではないのだ。そしてそれを「自由」と呼ぶかどうかは人の勝手だが、「自由」では人は成功しないということに気がつきでもしたら、大衆がそれを手放すことは確実であるように思われる。軽蔑的な意味では一切なく大衆は自由より権力の方が好きだからだ。自由というのは権力を得るための手段に過ぎないのだ。