風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

マックス・ウェーバーの独裁者4

ということは記述的にはこのことは行き詰まりだということだろうか。権力への意志からだ、と言ったところでこれがカントやヘーゲルから見て幼稚な還元論以外に見られる可能性はまずない。結局私はジジェクに賛成する気はないし、それに対する解釈が他人に説得できるかたちで共有されるとも信じられない。なにを言ってもヘーゲル的な反論で返されるような気がする。そして私自身もニーチェ的な観点で反論することだろう。ヘーゲルニーチェの方法論から言ってもこのことは交わらない。それは本質的に他者を自分と同一の存在として扱うということと、どこまでも他者は他者として自身と同一ではないと扱うことの違いに帰着する。このことは理論的な問題ではなく、態度表明の問題である。ヘーゲル(カント)もニーチェも自身が自身と同一ではないという点では見方は一致するが、そこから普遍的な法に従うのか、それとも自身の固有の法に従うのか。ジジェクはカントの態度とラカンの態度を必然的に混同して理解している気がするのだが。なぜ欲望に譲歩しないことが、大文字の他者に従わないことがマルクス主義的な革命でしかありえないのかというのは、実際にジジェク法だし、そうでしかありえない。ここからジジェクの説明がいつもヘーゲルラカンによってなんでも解釈されてしまうという自体が生じるのだ。この説明にはニーチェ的な要素がいっさい削げ落ちる。ジジェクの記述で面白いと思う部分はヘーゲルラカンからジジェクジジェク自身の価値判断を出していることにあるのであって、ヘーゲルラカン自身にそういった価値判断があるということではない。そして私が反対しているのがヘーゲルラカンからマルクス主義的な価値判断を引き出すということにあるのだからジジェクにとっては何を言わんやだろう。しかしここまで言っても私が単にジジェクに賛意を表明しているだけという気がしてならない。ニーチェの考えをニーチェによって批判しているのと同じことだ。何度目かのつまりだが、わたしはジジェクが具体的普遍だとは認めないということではないか。たとえジジェクの理論をすべて認めたとしても私はジジェクに賛成ではないのだ。ここまでくるともはや感情的にジジェクに反対しているだけのような気がしてくる。実際そうなのだが、私の考えではそれこそが一番大事だということになるのだ。私はこういう自然的反感を認めるのだ、と言っても何か間違っているところがある。というのは単に気分的な反感だけならジジェクにここまで敵対する必要などないからだ。ジジェクに反対するには何か終わりなく反対し続けるといったことが必要であり、論理的にはきりがない。しかし、ジジェク自身もそのことがわかっていると感じる場所があり、もうこうなると何が何やらさっぱりわからんということになるしかない。くそっ、これじゃなにもいってやしない!