風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

天才の発明

「「ニーブールは野蛮な時代が来るといっていたが、それは正しかった。」とゲーテは言った。「その時代はすでに来ている。われわれはもう、そのまっただ中にいるのだ。なぜなら、野蛮であるとはすぐれたものを認めないということではないか。」」(エッカーマンゲーテとの会話』)
ダリは現代の天才というものを発明した。つまり自分で自身を天才だという天才である。これはブレヒトスターリン評に似ている。「ぼくはスターリンについてのきみの見解にくみしない。過度の崇拝者の賛美と、ロシアの闘争から(自由意志によってであれ、いなであれ)訣別したものの攻撃が、彼の像を曇らせている。彼は著作家としてはさして輝しくはない。誉めそやされて平気でいるからには、趣味も悪い。といって〈偉大〉と呼ばれるのが好きだからといって、小人物とは限らぬ……」(ブレヒトベルトルト・ブレヒトの仕事1』)もっともダリは、こういったことをすべてわかった上で実行しているし、彼は相当の教養があるが。しかしなぜ自分自身で「天才」と名乗らなければならないのか。それは明らかにニーチェの「はたして現代に偉大さは可能であるか?」という問いと深く結びついている。問題は自分が偉大だと宣言しないのであれば、誰も偉大さについて理解することすらできないということにある。しかし自分を偉大だと呼べる客観的根拠などなにもありはしない。だからこその偏執狂的批判的分析である。もはや天才は発見されず発明される。つまり何についての天才かを説明することから始めなければならないということだ。「これはまったく……ダリ的だ」という風に。自身をプロデュ―スできることが天才の条件となった。だから逆にプロデュースをする天才というものが必全的に生まれてくることになるのだ。そしてこれこそが過剰露出である。露出は身体をプロデュースする。つまり創造する。ダリの「見えない女」を思い出そう。よってこの業は創造主のそれと一致することになる。みずからを唯一絶対の神と見做すことは露出症の論理的必然である。というのは唯一神露出狂だからである。もし神が完全に裸なら神の姿を拝みことはできないだろう。それは眩しすぎるからだ。だから、過剰に露出することに対する過剰に隠すことが問題になるのである。これこそ見られるための論理的帰結ではないのか。こうなるともう見られないのが恥ずかしいということになるのでないか?現代の恥ずかしい服―――ロボットやライダースーツも含めて―――を着て仲間を大切にすると称する科学的兵器が、目玉をなぶり殺しにするということ、これこそ「皿のない目玉焼き」だということになるだろう。