風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ヘイトスピーチはなぜピヨピヨ鳴いているだけに過ぎないか2

「科学の現実原則と道徳の(集団的起源の)現実原則は、制度的な意識と言語によって混同されているのだが、ニーチェはそれらを分離し、対立させ、そして最後には、一定の状態に価値評価を下すことを強いるような力こそが唯一有効な現実であると宣言することによって、それらを廃棄する。そうした力が社会や個人に欠如すると、その社会や個人は、道徳と科学の二つの原則を、集団的言語の現実原則という形で再び混同してしまうのだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
ニーチェがさまざまな機会に「政治の再転換」について語るとき、彼は実験の自由に言及し、それがもしも哲学者によって担われないとしたら、群集によって担われる危険があるとほのめかす。しかしまさにそのときに、、最も大胆な実験行為は、種の保存の名において今一度非難をあびてしまうのだ。だから必要なのは、生の無意味なる基底が種の「理性的」な進歩に対して優位に立つことである。そしてそれが優位に立つためには、哲学者によって情動の諸力に一つの目標が与えられ、情動の諸力がその目標のなかに満足を見出し、満足を見出すことによって、種にとって、したがって世界の組織にとって有用な消費よりも情動の無用な消費がまさるようになること、そのことが必要なのだ。」(同上)
「かりに―――「悪循環としての神」の神学とは言わないまでも―――「悪循環」が、一見不可逆的である歴史の進行を一種の退行運動(いつも不確かな出発点に向かって遡行する)に逆転させるばかりでなく、さらに種を「原初の」状態に、つまり「個別的ケース」によって決定される実験的イニシアティヴに完全に従属した状態に維持するのであるとすれば、抵抗したいと思うあらゆる決定は予見不可能なのだから、何が真で何が偽かの諸基準をひきあいに出そうとはもう誰も考えなくなるだろう。というのも、現実原則は万人と各人の同一性の原則とともに消滅するからである。現実とは完全に恣意的なもの、行動のある状態との相関において(価値として)設立されたシミュラークルのかずかずによってあらわされるものでしかなく、その衝動の状態もまたさまざまに変動し、個別的ケースが持つ解釈の力が大きいか小さいかにしたがって、意味を変えるのである。到来するものの意味と目標は、実験の成功によっても、またその失敗によっても、いつでも取り消すことができるのだから。」(同上)