風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい芸術批評のためのプログラム3

「(…)ニーチェダーウィン自然淘汰の概念を、現実におこなわれる選別―――それは、生の意味と価値を危険にさらす人間達の支配をもたらす―――歪曲としてしりぞけるのだが、そのときニーチェが感じていることは、ダーウィン的な淘汰が、平凡な存在たちを、強く、豊かで、強力な存在たちのようにみなしてしまう点で、集団性と共謀しているということである。それに対してニーチェ自身の考えでは、強い存在たちとはほかならぬ例外的な個別的ケースのことであり―――これまで実際には排除されてきたものたちのことなのである。ダーウィンが提示した餞別はブルジョワ道徳と完全に一致する。それは外部の、科学の陰謀、制度の道徳であり、それに対抗してニーチェは〈悪循環〉の陰謀を企てるのだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「(…)また、彼が他人理解される可能性や他人との類似点を吟味していくにつれて、彼は稀有で真正な経験の価値は多くの人々慣習を通って群集や大衆のスローガンとなるやいなや過小評価されてしまうという無謬の法則を見抜いた。群集は一人の人間の苦悶も、苦悩もまさに譲り渡すことのできない至福も経由することもなく、そうした経験を我が物としてしまう。「ニーチェは狂人にならざるをえなかったのだから、われわれはもう狂人になる必要はないのだ」というジッドの言葉が真実であるのは、ニーチェの教えからとりわけ「反道徳主義」から実践的な教訓を引き出す場合においてのみである。しかしこの点からすれば、この価値の過小評価は産業的な標準化によってなされるものだ。注意深い読者がニーチェを読むことで得られる教訓があるとすれば、それは軽薄さへの嫌悪である。ところで今日では反道徳主義と軽薄さは同義である。」(ピエール・クロソウスキー『かくも不吉な欲望』)
「そのような心情がしだいに支配的になり、そのような心情の人間が支配者となるならば、その結果は巨大な道徳的欺瞞(もしくは羞恥の欠如)となる。」(ニーチェ『遺稿 1883年春‐夏 7[二三]』)
「(…)いまや第二の転換が可能となる。羞恥の欠如。獣的人間における、幻想の事実における一般的快楽。被支配者のもとで凶悪は「劣悪」になる。」(同上)
動物の視点から見た人間についての判断。動物にとって人間は寄生虫ではないのか?」(ニーチェ『遺稿 1883年春‐夏 7[一五七]』)
「我々にとって猿であるものは哄笑であるか痛ましい恥辱である。超人にとっては人間がそれであろう。」(ニーチェ『遺稿 1882年11月‐1883年2月 255』)
「道徳とは趣味の問題であることをいまだ知らないのが、野蛮の一般的な支配的形態である。」(ニーチェ『遺稿 1883年春‐夏 7[六二]』)