風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい芸術批評のためのプログラム

(…)しかし、兄よ、兄の書物がロマン主義でないとしたら、一体何がロマン主義であるか?「現代」と「現実」と「近代的理念」とにたいする深い憎悪で、兄の芸術家的形而上学において発揮された以上に極端なものがあるであろうか?―――その形而上学は、「今」を信ずるよりはむしろ「無」をすら、むしろ「悪魔」をすら信ずることを選ぶものではないか?兄の一切の対位法的発声術や耳の誘惑術の下を、憎悪と破壊欲との基底音が、「今」なる一切のものにたいする狂暴な決意が、実践的悲観主義とさして遠からず、「汝らにして正しくんば、むしろ何ものも真理ならざるに若かず!」と語るがごとく見える一つの意志が、響き渡っているのではないか?悲観主義者にして芸術礼讃家たる兄よ、兄みずから、さらに耳を聞いて聞くがよい、兄の書の選び抜いた唯一無二の個所を、若い耳や心には危険に、かの鼠捕りの吹く笛のように誘惑的に響くかも知れない、かのまずは雄弁と称する竜退治の個所を。どうであろう、それは、一八五〇年の悲観主義の仮面をつけた、一八三〇年の正真正銘のロマン主義者の告白ではなかろうか?その背後には早くも常套的なロマン主義者の終曲(フィナーレ)が序曲を奏でているではないか?挫折が、崩壊が、古い信仰の前への、古い神の前への復帰と拝跪が………。どうであろう、兄の悲観主義者の書は、それ自身が反ギリシア主義とロマン主義との一片、それ自身が「陶酔させるとともに朦朧たらしめる」或るもの、ともかく一種の麻酔剤、のみならず音楽の、ドイツ音楽の、一片ではなかろうか?ともあれ聞くがよい、
「われわれかかる不適な眼差しと、比倫を絶するかかる英雄的な気宇とをもって成長し来る次の世代を想像するならば、これら竜退治の者どもの大胆な足取り、全き充実のなかに『決然と生きるために』かの楽観主義の一切の柔弱な教義に背を向けるに当たって彼らが示すかの傲岸な不適さを想像するならば、かかる文化の悲劇的人間が、真剣と恐怖に耐えるべく己を訓練するに当たって、一つの新しい芸術を、形而上学的な慰藉の芸術を、悲劇を、己のものたるヘレネとして熱望し、ファウストともに、『われもまた、憧れ求めてやまぬ力もて、世に類なきこの姿を甦らし得ぬことがあろうか?』と叫ばざるを得ないということは、余儀ないことではなかろうか?」
「余儀ないことではないだろうか?」だと………否、三たび否!諸君、若きロマン主義者たちよ、それは余儀ないことであってはならないのだ!しかし、そのように終わるということは、すなわち上に述べられているように、「慰められて」、真剣と恐怖に耐えるべくいかに己を訓練しても、「形而上学的に慰められて」終わるということは、要するに、ロマン主義者達の終わるように、キリスト教的に終わるということは、大いにありそうなことである………が、そうであってはならないのだ!諸君は、まず此岸の慰藉たるべき芸術を学ばねばならぬ、―――諸君は哄笑することを学ばねばならぬ、わが若き友よ、諸君があくまで悲観主義者にとどまらんと欲するならばだ。その結果おそらく諸君は、哄笑するものとしていつかは一切の形而上学的な慰藉を悪魔の下へ追いやるであろう―――形而上学を先頭にして!(ニーチェ「悲劇の誕生 或る自己批判の試み」)