風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

関係ない2

「(…)もしまったく被害者がいないなら、人を殺す快楽を味わうことそれ自体は、悪でなく善だ。ひとり自室で殺人シュミレーションゲームに興じるやつを、我々は恐れ、嫌悪する。しかしそれはそいつのその傾向性に恐れを感じるだけで、それらを全部除去して、彼の快楽だけ取り出して考えれば、それは善だと言わざるをえない。繰り返すが、これはまったく自明な事実を確認しているだけにすぎない。明晰に思考できさえすれば、だれでも賛成せざるえないはずのことだ。(…)と言い切ってしまいたいところだが、実は難しい問題がある(…)道徳的行為自体が一つの価値になるのと同じように、不道徳な行為自体が―――結果を度外視して―――一つのマイナス価値になる。そうすると、そのマイナス価値を実現することによる苦痛もまた生まれるからな。だから純粋に功利主義的に、快楽や幸福の総量という観点から見ても、不道徳な行為の介在が自体を善くするとばかりは言いえない。しかしここで重要なことは、道徳的な価値やマイナス価値は、他者との関係において生じるものだから、他者と語り合う場面では、すでに必ずこれが成立していて、かつ前提されている、ということだ。殺人による快楽はそれ自体としては善だというような主張を人々が受け入れがたい理由はそこにある。それは、人々の間で通用する「言説」としては、存在する必要のない、存在することが不適切な言説だからだ。」(永井均『倫理とは何か』)
「M先生はどうかわからないけど、道徳主義的な人って、たいてい、道徳的行為は苦痛であるという意見を躍起になって否定して、道徳的行為は気持ちがいいと言いたがるくせに、それならすべての道徳的行為は自分の気持ちよさのためになされるんだ、というとそれも嫌がるんだよね。
 それは構造上の問題だから、道徳嫌いの人のほうも同じことなんだ。道徳的行為は気持ちがいいという意見は否定して、苦痛だといいたがるくせに、すべての道徳的行為は自分の気持ちよさのためになされる、という意見は好むだろ。」(同上)