風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

関係ない4

「(…)彼らの純粋さについては疑う余地はない。この世代のうち、戦争の経験によって戦争への熱狂をさまされた者は比較的少数でしかなかったという事実がそれを示している。塹壕の生き残りは平和主義者にはならずに、自分達の経験にしがみついていた。その経験が彼らを周囲の憎むべき体面の世界から決定的に解放してくれると期待したからだった。政治的に言えば、彼らは、塹壕の四年間の経験の有無が新しい指導者層の形成の客観的な選別基準となることを望んだのである。その際彼らは過去を理想化しようとする誘惑には屈しなかった。彼らは機械化時代の戦争が勇気、名誉、男らしさといった騎士道的な美徳を生み得ないこと、そしてそれは絶対的な破壊の経験を与えてくれるほかは、せいぜいのところ人間の慢心を打ち砕いて、人間なぞ巨大な大量殺戮機械の一つの小さな歯車に過ぎないということを教えてくれるだけだ、ということを認めた最初の戦争賛美者だった。」(ハンナ・アーレント全体主義の起源3』
「(…)彼らにとっては暴力行為、権力欲、残虐が人間最高の能力だった。彼らは世界における住家を決定的に失った存在であり、そして法則の持つ確実さという港に連れ戻し世界の中に再び組み込んでしまう惧れのある理論を追い求めるには、あまりにも誇り高い存在だったからである。彼らは上流階級の呪詛を浴びたものには何であれ盲目的に味方し、教義や内容などにはお構いなしだった。そして彼らが残酷さを最高の徳にまで持ち上げたのは、これこそまさに彼らの周囲の自由主義と偽善に真っ向から対立するものだったからにほかならない。この世代は19世紀のイデオロギーときわめて多くの共通点を持っているように見えるものの、彼らの理論蔑視と激しく直截な表現は19世紀と際立った対照をなしている。彼らは同胞愛の使徒や宗教革新の説教者たちとは比較にならないほど、社会の悲惨と上流階級の偽善と時代の精神的危機に深く傷ついていた。この点では彼らは帝国主義の世代と似てはいたが、しかし今の彼らにはもはや異国への脱出という逃げ道はなかった。地の果てでの異郷で時を送り華々しい冒険に身を投ずることは不可能になっていた。帝国主義時代は、中部ヨーロッパの諸民族にとってはまだ碌に始まりもしないうちに幕となり、お伽の国への門はすでに最終的に閉じてしまっていた。悲惨と屈辱と失望と怨恨から逃れる道はなく、これらすべてをごまかそうとする教養あふれるお喋りがとめどなく続くばかりで、そのいやらしさにいかに嘔吐をもよおそうと、それから逃れるすべはまったくなかった。広い世界への脱出もままならず社会の罠に逃れ難く捕らえられているという感情―――これは帝国主義的な性格を形成した条件とは非常に違っている―――は無名性と自己放棄を求めたかつての傾向にさらにもう一つ、暴力に対する異常な、ときにはヒステリーじみた欲求を付け加えた。超人間的な破壊の展開のなかに自らを投ずることは、いずれにせよ、社会において当てがわれた役目に縛り付けられた虚ろな陳腐さに首まで漬けられていることからの解放になると思えたのである。」(同上)