風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ニーチェの国家原理

国家は個人のための手段であるということ。このニーチェの主張を説明するために最も適しているのは当然ファシズムである。ハイデガーから出発しなくてはならない。拝謁すべき皇帝は代表者ではなく、またそうであってはならないのであり、指導者を通じて真理が開示されなくてはならないというのはどのような意味で正しくなるのであろうか。クロソウスキーの言葉を思い出さなければならない。貨幣が人々の糧をあらわせばあらわすほど、構築された身体=皇帝は価値を上昇させるのだと。問題は人々の享楽がどのように構造化されるかである。もはや真理をもたない人々はどのような方法で享楽を考え出すのか。回り道をしてスターリン主義のことを考えてみよう。スターリン主義は決してニーチェ的ではない。なぜならスターリン主義は依然として近代国家の真理に仕えており、スターリン主義の享楽は自身を裏切り者として笑いものになるように粛清されるという真理の誠実な自己破壊に留まっているからだ。この意味でスターリン主義は悲劇的であるという主張は正しい。真理は自身が最高の圧制において表現されることで至高の価値を持つからだ。ナチはそれよりずっと堕落していた、こう主張するとき、もはや価値判断がニーチェの高貴‐劣悪の価値判断でしかないことに気をつけておこう。スターリン主義は反論されうるが、ナチは反駁されており、反論したいなどと思わない。しかしそれでもなぜこうナチが回帰してくるのかは考えざる得ない問いである。ナチの享楽はどのように構造化されているのか?絶滅のファンタスムによって、つまり人々の身体を徹底的に無にすることによって皇帝に至高の価値を与えるために。サドの議論が重要である。これはサディズムの議論ではないことに注意しよう。犠牲者が永遠の拷問を受けその身体がまさにその状態で永遠化するとき、サドの主人公は至高の享楽を手に入れる。天皇制の概念で言えばこうなる。日本国民が一人残らず天皇のために自身の命を投げ出すのならまさにそのことによって自身の天皇概念の価値は至高のものとなる。ナチとの違いは(あるいは共通点は―――)まさにある個人を絶対のものとするために自身の享楽を捧げるということにある。反ユダヤ主義は自身にその根拠を持っているが故に、その享楽を外在化して絶滅したのだ。これでハイデガーの皇帝は代表者ではないという意味が正確に理解されるであろう。皇帝は決して交換可能であってはならないのだ。