風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

不正な裁判官に嘆願する

十字架は目的ではなく手段だということ。パウロがイエスを利用したように我々も自身の十字架を利用すべきだということ。パウロはニーチェにとって悪い趣味を持った人間に過ぎない。私はこういいたいのだ。自身の十字架を高く売りつけるべきだと。「そこで、わたしはあなたがに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい」パウロは不正な管理人の役割を実行している。もちろんそれは価値の薄れた悪貨であり贋金作りである。しかし純粋な良貨はどのようにしても交換不可能なのだから、どうしてもこのやりかたが必要になるのだ。パウロはイエスを原罪という不滅の暴行を加えることで永遠化した。「(…)この作品でドイツ人は今一度私に対して不朽不滅の暴行を加え、かつそれを永遠化する手筈であった!今すぐにならまだそれをするのも間に合いますよ!―――それはうまくなされたのですか?―――うっとりするほど美事だ、わがゲルマン人諸君!私は諸君におめでとうと申し上げたい…」(ニーチェ『この人を見よ』)自身を十字架に架けて不滅の笑いものとし、それを高く売りつけること!これが「十字架に架けられた者 対ディオニュソス……」におけるニーチェの戦略であり、神々を笑い殺すということなのだ。『この人を見よ』はまさにニーチェニーチェを笑いものにするために書いた著作なのだ。実に見事な方法であり、しかも依然として有効であり続けている。ニーチェを狂人として扱ったことで、我々はそれを非常にうまく成し遂げたに違いない。まさに「おめでとう」である…。こう考えるとニーチェがドイツの哲学者を贋金作りだとして批判した理由が明瞭になる。ようするにドイツの哲学者はキリスト教のパウロの役割を引き継いだに過ぎないというわけである。そしてハイデガーニーチェの贋金を作ったわけだ。ニーチェの戦略はブレヒトの言葉によって的確な表現を与えられた。「銀行の建設に比べれば銀行強盗が何であろう?」(『三文オペラ』)と。キリストになることに比べたら、キリストを解釈することがなんであろう?ニーチェはそれをやったのだ。そして万人が自分自身のキリストになれば、誰も罪を負うことはない。なぜなら罪という贋金は、キリストになることによって等価値になり無意味になるからである。貨幣で交換出来ない唯一のもの、それは貨幣である。キリストになることはキリストを信じることとはまったく別のことである。まさにその信仰こそが原罪であり、貨幣なのだ。こうしてやっと「イエスが死んだ後の世界」が終わり、「大いなる政治」が行われるようになるのだ…。