風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

誇り高き決闘者の法と神的暴力

ベンヤミンの「暴力批判論」を使って徹底的にゲームをしてみよう。まずミリタリズム批判から。ベンヤミンによればミリタリズムの問題は「その暴力の二重性である」。ベンヤミンはここで法措定的暴力と法維持的暴力が兵役義務において一致するということを念頭においている。我々にとって兵役義務は存在しないとはいえ、軍隊の問題はその安全保障上の問題からいってもこのような矛盾をもっている。軍隊がただ存在し、我々を守る義務だけにとどめておくという可能性は存在しない。国家はその安全が保障されないとなれば、たとえそれが被害妄想だとしても、軍隊の行使を行って、自らの暴力の独占を宣言するであろう。そのために役に立つのがもうひとつの主要な暴力手段である警察である。警察は法措定的暴力と法維持的暴力の一致において誕生する特殊な民主制の制度である。警察の重要な特徴は、その実体のなさと、国家が押し通したい「法」を行使するための手段として使われるということである。特に警察制度は無定形であるという点が重要である。この場合どのような法的正当化も実質的にはない以上、警察を法体系のレベルで批判することは不可能である。このような一連の神話的暴力―――つまり国家の「法的」暴力―――に対して我々は何ができるのだろうか。まず第一に押えておかなければならないことは、もし我々が市民的な法の遵守を求めるとすれば、我々はこれらのものに屈従するのがもっとも「法」にかなった行為であるということである。というのは法を措定するのが国家の側にある以上、我々はそれに従う以外にはないからである。これがガンジーの不服従の態度である。つまり法を過剰に守ることによって、相手に暴力の過剰さの危険を理解させるという方法である。「法」はそれ自体として過剰な暴力を持っている。だからこそそれを過剰に守ることは、ある種の国家に対する暴力をも意味することになる。しかしこの方法は、こちらを本当に殺す気がない国家にしか意味がない。なぜなら、この法を過剰に遵守するという行為に対して警察は何も感じないからである。警察はそれに対して、単純により「良い」法を創り出せばいいだけである。よって行為のレベルは法措定的暴力自体をこちらのものとするようなものでなければならない。そこで私は「ゲームの法」という概念を導入する。この「ゲームの法」は従来の契約による法とどのように違うのか。この「ゲームの法」の重要な第一の点はこの法は万人に当てはまるとはかぎらないという形式である。第二の点は、万人が享楽を賭ける事を宣言することで神話的暴力をふるうことができる。ただし神話的暴力をふるわれたものは、神的暴力を行使することが許される、という形式である。この二つの形式を分かりやすく述べるのならこうなる。
デュエリストであれば挑まれた勝負はデュエルで決着をつけねばなるまい」