風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

誇り高き決闘者の法と神的暴力2

私は海馬瀬人のように真剣である。彼はすばらしい傲慢さで誇り高き決闘者と馬の骨を区別しているが、それは正しい。とはいえ本題に戻ろう。まずこの「ゲームの法」はいかなる主体によって行使されるのか。この「ゲームの法」が対立しているのは法体系(真理)としての法である。つまり万人に当てはまる侵犯可能な法を破壊するために立てられている。なぜならこの「ゲームの法」の前提はもはや法体系としての法が侵犯の対象としてしか感じられず、むしろ侵犯することによってしか、この法に認識されることがないような主体の存在であるからである。社会の交換体系から排除され、もはや人間としての同一性を保証できなくなったこの主体は、犯罪の概念を法措定の暴力に置き換える以外の選択肢をもたない。ここでサドの構想と、この「ゲームの法」を比較しなくてはならない。サドは侵犯の享楽を万人に保障しようとするのだが、「ゲームの法」はこのサドの構想の正反対である。なぜなら「ゲームの法」は享楽の侵犯ではなく、立法者となることで享楽を他者に対して賭けるからである。享楽を賭けないものは享楽に服従することしかできない。この差異によって、この主体は「あらゆることが許されている」から「許されていないものは何もない」に決定的に移行する。法は保証するものではなく、行使するものに成る。ではこの「ゲームの法」は国家の神話的暴力に対してどのように役に立つのか。まず第一にこの「ゲームの法」を立てることで国家からの暴力を神話的暴力からの挑戦と捉えることが可能になる。法に服従するか侵犯するかしか選択肢がない保証された主体との差異は歴然である。第二に行使する主体はそれに対して神的暴力をふるうことが許される。だがなぜ「許される」のか?それは神的暴力は神話的暴力に対してしか行使が不可能だからである。つまり神話的暴力によって開かれた空間によってのみ、神的暴力は可能になる。青眼(ブルーアイズ)の攻撃とその攻撃に対する反撃はソリットビジョンシステムによる空間でのみ可能になるのだ。「ゲームの法」は常に‐すでに私たちが神話的暴力の挑戦にさらされているというひとつの全体的な認識を可能にすることに意義がある。逆に言えば私たちは国家に対して享楽を賭けることで法措定的暴力をふるうことが常に-すでに可能になるのであり、国家の形而上学批判を法措定的な暴力として捉えなおすことが可能になる。この「ゲームの法」の道徳は享楽を賭ける誇り高き決闘者であることであって、享楽を賭けないものは馬の骨と呼ばれる。さああなたもいますぐ誇り高き決闘者になろう!