風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「猿が見ていますから、どうぞ、お行儀よく」2

それはどうも違う、と感じられる。ニーチェはむしろ悩み苦しんでいる人間の方に高貴さを与えていないだろうか?ニーチェの高貴さには悩み苦しんできた後の快活さによって支えられているように思える。ニーチェが劣悪と呼んでいるのは、悩みも苦しみもしない快活さではないだろうか?これが「末人」ではないか?つまりニーチェが対立させたいと思っているのは、悩み苦しんでいることの一般的な正しさとそもそも悩み苦しまないことの両方ではないだろうか。悩み苦しんでいたとしてもあえて快活であること。そこにニーチェは賭けているように思える。このような個別的な快活さが求められているということはけっして単に趣味の問題なのではない。(あるいは決定的に趣味の問題である。)この個別的な快活さそのものがあたらしい道徳的判断なのだ。なぜならキリスト教批判によって提起された生自身の価値判断はすべからく道徳的であるという命題は覆しえないからだ。さてここで表現されていることがなぜ生成論に対する反論になるのか。そもそもなぜ反論なのか。ニーチェは生成に賛成しているのではないのか。一切が生成するのならなぜ永遠化することが必要なのか?その理由は生成への態度はニーチェによれば二種類あるからだ。生成論に対する悲観的な考えそのものをまず見ておこう。それは「すべては虚しい、すべては同じことだ、すべてはすでにあったことだ」である。さて問題はこうだ。ニーチェはカントの「物自体」を否定した。しかし生成論的に考えた場合、「力への意志」(あるいは欲動)が「物自体」と同じように必要不可欠になる。もし「力への意志」を否定するなら―――実際ニーチェ自身もそんなものは存在しないと知っているのだが―――それはカントの形而上学の地平に戻ってしまう。つまり静態論的になってしまう。このジレンマを抜け出すためにもうひとつの生成である永劫回帰が要請される。永劫回帰を悲観的な生成論に対する徹底的な反論と考える必要がある。というのは永劫回帰は個別的な生を絶対化するからである。個人の生が繰り返し生成されること、その生成を生きること―――それは意志によって起こるのではなく、一切がよいと語りかけることによって行われる。これが動物的な生成の無垢であり、それによって世界は肯定され神々しい物になる。―――これは個人の人格を無視する生成ではないのか。私はニーチェ永井均によれば「病的な」態度、過去に起こったことまでも救済し、全ての「あった」を作り変えて、「私がそう欲したのだ!」にしてしまうという救済の態度の方をニーチェの態度として擁護したいのである。あらゆる嘘やでっちあげが捏造されることも含めて生成の無垢だということ、このことの方が無を欲すのでなく生成を、ラカン的に言えば欲望を諦めないことを示しているように思う。だからこそ高貴さを、インモラリストとしてのニーチェは手放さなかったのだ。キリスト教的な病的さに対抗するディオニュソス的な病的さ。この病的さが欠けているという事こそ「末人」たちに対する反駁理由ではないのか。もし快活さだけが問題なら、「末人」達もまちがいなく快活であるはずである。こうしてニーチェの陰謀は達成され、我々は二ーチェに加担する。そのことを知るには「あなたは人間の不正に抗議しているのか?それとも人間の低劣さに抗議しているのか?」という問いを発すれば事足りる。我々の社会の不正ではなく低劣さの帰結に、低劣さの証拠を突きつけられているこの社会に、すでに反駁されている低劣さにまだ批判をおこなおうとする低劣さに、ニーチェは高貴さの道徳を広めることで陰謀に加担させるように呼びかけるのだ。