風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「猿が見ていますから、どうぞ、お行儀よく」

もしあらゆる認識がひとつの「現実界」を巡って構築されているとするなら、「精神病者」が常に生成論的な立場をとることは理解できる。しかしもし「現実界」の享楽そのものが実体化した形で現れてくるとすれば、生成は終わり、認識はひとつの不可能になるのではないか?(つまりメディアだけが認識を持つ)精神分析が近代的理念からの「治療」であることを忘れてはならない。ここで不可能だといわれているのはデカルト‐カント的な近代的認識であるにすぎない。後期ラカンが生み出したとジジェクが言う「欲望の法」や「サントーム」は根本的にそのような立場を超えている。そこで私はニーチェの根本的な問題提起である「よいとは何か?」という問いを取り上げたいと思う。ニーチェが問うているのはよいの意味ではなく、人間の階級秩序の問いである。ニーチェ的な立場の生成論は価値判断ができない。あるいは価値の生成が「よい」という価値判断である。よってあるひとつの存在論的実体によって価値判断を行うことはできないということになる。ではこの生成論に反対するような価値判断とはどのようなものなのか。ニーチェはこれに対して高貴‐劣悪という道徳的価値判断を対置する。わたしはこの二項対立に「道徳的」と付け足した。なぜ「道徳的」価値判断なのか?ニーチェはあらゆる意味で道徳を撲滅し、超人を創り出したいのではなかったか?私はこの反論に一言で答える。アーレントが言うようにニーチェは本質的に(イン)モラリストだと。まず簡単な誤解をといておこう。ニーチェの道徳批判、つまり「一切は許されている」ということから「どんな犯罪でも好きなようにやっていい」ということを導き出すことほど非ニーチェ的なものはない。たとえそれをニーチェがどれほど推奨しているように見えようともである。彼は頻繁にこう言っていなかったか?犯罪者の犯罪ではなく犯罪者自身の低劣さこそ犯罪を軽蔑すべきものにすると。次の言葉を付け加えればこのことに対する誤解を粉砕できるだろう。「はたして私たち無道徳家は徳に損傷を加えるであろうか?――アナキストが君主を傷つけないのと同様である。君主が狙撃されるにいたって以来ようやく、君主はふたたびその玉座に揺るぎなくついている。人は道徳を狙撃しなくてはならない。これがほかならぬ道徳である。」(ニーチェ「群像の黄昏,36」)さてニーチェの道徳はキリスト教道徳とどのように異なっているのか。そしてなぜこれが生成論に対する反論なのか。順番にやっていこう。まずニーチェによる高貴さの主要命題は次のようなものである。「高貴であることのしるし。すなわち、我々の義務を、全ての人間の義務にまで引き下げようとは決して考えないこと。己自身の責任を譲り渡すことを欲せずに、分かち合うことも欲しないこと。自己の特権とその行使を、自己の義務のうちに数えること」(「善悪の彼岸,272」)一見して分かるようにここでこの言葉がカントに対して言われていることは明らかである。ただしこの言葉がカントの定言命法の形で普遍化されているということを理解しなくては、これが「道徳的」(あるいは非道徳的)であることの理由が失われる。ニーチェの高貴さの立場はカントの根源的「悪」の立場である。このことを理解するために回り道をしなくてはならない。まずニーチェキリスト教道徳をどのようにして生まれたと考えているのかを見てみよう。それは悩み苦しむものであった。それは見るに耐えなかったからである。悩み苦しむものは他の者達からは同じ人間だと感じられなかったので、悩んでいるものたちはルサンチマンの感情から「神の前の平等」というものを創り出した。よってニーチェにとって劣悪さとは単純に見るに耐えないもの、つまり醜悪さに善悪の概念を戻すことを意味しているのだろうか?