風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

文体練習

そして一片一片の台詞だけが残ることになった。
「地の文は書きようがないのだろうか?」
それは分析的な補助線だろうか。地の文はしゃべった。
「でも私だって何かいてぴょんぴょんしてますよ。」
そうなのかもしれない。ぴょんぴょん。地の文だから何を書いてもいいのだ。
「でも台詞は検閲されているのでは?」
括弧つきだからそれには一定の距離があるということだろうか。
しかし距離をなくすために「」を使うときもあるのではないだろうか。
「そうかも!」
ところでやはりこの地の文はうるさいのかもしれない。完全に抑圧しようと躍起になって台詞に全てを集中させているのに
「文脈が足りないねぇ」
みんなびっくりする。突然何を言い出すのだ。わかっているのかいないのかシュミレートしているのか。しかし他者の反応ではまったくわからない。
「そこでさらに『』を使うわけですよ」
こういうやり方に対する策略としてこの文章を書いているのだが、やはりなにもできない。
「そうか、それはよかったね。おつかれさま」
とうとう文章相手に文章を書いているわけだ。文章に対する文章。宛先に届いている手紙。
「しかしこれなにが書いてあるのかぜんぜんわからないんだけど」
誤解がコミュニケーションの定式だから、それには反論できない。
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「誤解しないように」とイエスが言う。「誤解」とはコミュニケーションのことである。イエスの言葉は信じて実行するのでなければならないが、それは不可能性を行為によって埋め合わせなければならないということを意味している。イエスの言葉は法である。それはつまり禁止が制定されるということであり、そこから「あなたの主である父を愛せ」と「あなたの隣人を愛せ」という言葉が出てくる。「あなたの隣人を愛せ」は「愛」が隣人を生み出すということ、だからこそ近づき過ぎれば、愛の恥ずかしさに隣人を八つ裂きにせざるをえない。「恥ずかしさだけが生き残るような気がした(カフカ『訴訟』)」イエスの死は永遠のつまずきである。永遠につまずく、のではない。永遠がイエスにつまずくのだ。「私につまずかないものは幸いである」ニーチェの文章は逆であって、ニーチェの言葉は誤解されなくてはならない。そこからニーチェの文章の危険性と可能性が同時に表れる。ニーチェの文書はまさに不可能性を埋め合わせる文章であって、不可能性を定める文章ではない。そこからニーチェが頻繁に新約聖書を読みにくい文章だといっているということが理解される。ニーチェの文章はそれが改めて発言されれば確実にその文章から離れざるを得ないという意味でひとつの誤解であるのだが、だからこそニーチェの文章は新約と一緒に読まなくてはならない。すなわち隣人愛を要請する文章と隣人愛の文章とを。