風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

キリスト教と科学

「(…)しかし、ニーチェがその予言的闘いをくりひろげるのは、我々の工業社会の既成秩序に反旗をひるがえす反抗的夢想家ではまったくない。彼の計画の出発点は、近代科学の基盤は科学にあり、それは科学によってしか維持されえないという事実である」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
まったくの理想主義者、自身の無知から相当の利益を上げているもの、つまり科学者が勝利を収めてきたということ。一体何が科学者を勝利させてきたのか。まさにその楽天的な態度によって。あらゆる政治的なプラグマティズムより科学者の理想主義が創り出した科学技術のほうが強力であり、あらゆる文化大革命よりも革命的であったこと。重要なのは科学は人間が不可能なことを可能にするということである。私がいいたいのは認識論的な意味においての哲学的な洞察そのものを科学はのりこえるということである。たとえば
「(…)しかし明晰さの中心、すなわち自我を破壊してしまったら、人はどうして明晰でいられるのか。基本を持たない意識はどのようなものになるだろう。もはや自我ではないあらゆるものに帰着せざるを得ないとなったら、記憶はいかにして存続しうるだろう自分自身以外の全てのことを記憶しているような人間をやめながら、しかしなお記憶し続けるということにでもなるのだろうか。」(同上)
このようなものの正体を我々はとっくに知っているだけではなく、それよりもさらに高度な操作を狂気なしで実行できる。だがこのようなことは何から生まれてきたのか。「キリスト教誠実において」とニーチェは言う。「まさにそのような誠実自体がキリスト教を破壊したのだ」だがそれは本当なのか。すくなくともまだほんとうではない、とだけいっておこう。実際のところ科学技術によってキリスト教はさらなる世俗化を遂げたのであり、しかもさらに深く、邪悪になったのだ。ヨハネの黙示録をもはや人間は現実に行えるのであり、ありとあらゆる聖霊の共同体がインターネットにおいて現にあるということ。ニーチェがいう「キリスト教は約束するだけで実行しない」ということはキリスト教である科学によって補われる。そして「キリスト教は予言を実現するように行動する」という言葉によって、ニーチェは核心をついている。ちょうどアーレントがナチはこの世に地獄がないのなら地上に地獄を生み出そうとしたのだといったように。原子力事故によって「神の国」となった地域においてこのことは現実であり、徹頭徹尾現実でしかない。科学技術はカタストロフそのものを生産し、また救いそのものも生産する。道徳そのものの科学化もファンタジーにおいてはすでに実現しており、「なんのため」自体を科学的に生産することも可能になるのではないのか。ラカン象徴界がことごとく現実的になるにつれて、無意識そのものも消滅する。あるいは完全に外部として具現化する。もし科学にとって奴隷が必要なら人間は科学の奴隷になるだろうし、人間が奴隷を必要とするのなら科学は奴隷を創造するだろう。では科学は享楽を創造できるのだろうか?むしろこういうべきだろう。科学が自身は享楽を生産できないと気づいたとき、科学は人間を享楽の資源として扱うようになる。つまり神の享楽が問題になっているのであり、神にふさわしい見世物を演じて神を笑い殺すことが問題になるのである。だが神を笑い殺すとはどのようなことを意味するのか?「創造という『神の』行為に励むことニーチェ・デュオニソスとして)、それこそが冗談なのだ(『デュオ二ソス的な』)。」
神の王国に入ることのできる者たちは皆もともと神からやってきた
「満足かい。私は神で、こんなカリカチュアをやってみた」
「だらしない服装とは、現実原則という『不作法さ‐不適切さ』が除去されたことの具体的な表れののだ。科学と道徳の基盤であるばかりでなく、それらから派生するあらゆる振る舞いが、したがって現実と非現実の区別から出発したあらゆる伝達行為が基盤とする、その現実原則が除去されたということの」(すべて同上)
つまり現代的に言えばコスプレ…または神のコスプレをするということ。