風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「人形と少女は娼婦と本来同じものである」

 この寺山修二のことばを解釈するに当たって、考えなければならないことは、寺山修二は娼婦の概念を肯定的に捉えているということである。彼がサザエさんは浮気をするべきだと書いているのは決して冗談ではなく、磯野家の地獄のような家庭を破壊するためになされなければならないことである。このことで補助線として私が使いたいのはラカンの「娼婦とは母親でないものである」という言葉である。ラカンは父と母の関係について少なくとも不思議であると言う言葉を使った。なぜいつも親と子だけが問題になるのであろうか。娼婦の機能は次の律法「姦淫してはならない」に対する厳密な症候として現れることでこの問題を解明する鍵を与えてくれるかもしれない。母の位置に対する撹乱、つまり母の欲望を拒否する形態である。ファルスの不在を受け入れないことが決定的である。それはもちろんファルスが実際にあるかどうかは問題ではないということを受け入れないということだ。子供にファルスを渡さないということ「子供は原罪に最も近い」というベンヤミンによるボードレールの解読が、このことを最もよく示している。つまり「レズピアンの愛は、精神化を女性の胎内にまで推し進める。妊娠も家族も知らない〈純粋な〉愛という百合の旗印をそこに立てるのである。」(ベンヤミン『セントラルパーク』)ラカンが女性の同性愛と男性のそれとは区別されるべきだといっていることを思い出そう。この関係と(非)対称的なのは次の澁澤龍彦の文である。「私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するものであって、近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘を持つことの意味はまったくないのである。」(『インセスト、わがユートピア』)よって娼婦の存在は父が関わっているユートピアと母に対する女性性に本質的な関係をもっている。ラカンのよく引き合いに出す冗談「みろ、あの女は服の下は裸だぜ」、のように娼婦とはまさにそのような存在である。まなざしに対して母は服を着ているのだ。私がこのような洞察を行う必然性は次のベンヤミンの文章から導かれている。「私たちがごく日常的に用いる事物がだんだんと大量生産品になってきた生活空間で、何とか我慢して生きていく方法を、売春は先の可能性と同時に含んでいるように思われる。大都市の売春においては、女自体が大量生産品になる。大都市の生活のもつこのまったく新しい特徴こそが、ボードレールが原罪説を受容したことにその本当の意味を与える。」(ベンヤミン『セントラルパーク』)問題はそもそもかなしみホッチキス氏のフリーゲームタオルケットをもう一度」で明白にされていた。その可能性とは、あらゆる男性性の女性商品による自慰的な集団レイプと、世界の全てを女性の膣の中に挿入し、精子が侵略者、寄生虫として、あるいは体外受精による罪の子の生殖ということである。はたして母と父の結婚という概念はまだ可能なのだろうか?この概念はもちろん遡及的であることには注意が必要であろう。しかし体外受精や女性商品はこの遡及性に疑問符を投げかける。残っているのは、娼婦と子供だけなのではないか?「罪の子」は定義からして人類の子孫だとしか定義できない。象徴は完全に破壊されている。アニメ「キルラキル」はこれに対して近親相姦の母娘と姉妹同士のレズピアンに希望を見出していると解釈することもできる。男性は死んだ父親かただの裸の猿なのだろうか。男性の幻想が前性器的段階に留まるのは理由のないことではないのかもしれない。