風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』

次の物語はもっと核心を突いている。これは〈指導者〉ではなく、それどころか党員ですらなかったかもしれない人間の話だからだ。
「(…)『どこに行くつもりですか?』と私は訊いた。彼女はわからないと言う。知っていることはただ、自分たちは皆ドイツ内に連れ戻されるだろうということだけなのだ。それから驚いたことに彼女はこうつけくわえた。『ロシア兵は決して私たちをつかまえないでしょう。フューラーは決してそんなことをさせておきません。それよりもむしろ私たちをガスで殺してくださるでしょう。』私はそっと辺りを見まわした。しかしこの言葉を奇妙だと思ったらしいものは一人としていなかった」
この物語は大概の実話と同じく何か物足りなく感じられる。他の誰かの声が――できれば女の声が――重苦しい溜息とともにこう答えねばならないところだ。
「それなのにそのガスを、高価なそのガスをそんなユダヤ人のために使ってしまったなんて!」