風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

東浩紀『一般意志2.0』とアニメ『サイコパス』

 私の前提はアニメ「サイコパス」は東浩紀氏の「一般意志2.0」の理想的な表現だということである。私は東氏の著作の内容に完全なる擁護を与えるためにこの文章を書いている。そのことを東氏のルソー的な概念を私のニーチェ理解に基づいて批評してみるとしよう。
 ニーチェの位階への欲望はルソー的「平等」と人種差別主義とは異なり、憎悪のなさに基づいている。だがこれは典型的なコーポラティズム的発想ではないのか。ナチはまさに反ユダヤ主義を手段としてそのことを目指したのではなかったのか。ニーチェには誤解の余地がある。レーニン的な発想に立てば、ルソー的な平等を無くすためには階級の廃絶こそが必要なのであって階級の欲望が必要なわけでは決してない。二ーチェ的な「貴族」とプロレタリアートのどちらがより根本的にラディカルなのかなどという問いはナンセンスであろう。
 しかし依然として何かしっくりこないものがある。ニーチェはなぜプロレタリアートに反対とはいわないまでも主要な位置を当てなかったのか。ニーチェにとってマルクスの問題はどのようなものに映ったのか。ニーチェが確信しているのはプロレタリアート独裁が実現した場合、それは野蛮の普遍化になるというのである。ニーチェは言う「普遍的な教養、つまり野蛮というものが共産主義の前提なのである」「普遍的な教養は真の教養に対する憎悪に移行していくのである」「それ故に、教養の完全なる世俗化のうちに手段としての教養の、利得への、粗っぽく理解された地上の幸福への従属のうちにあるのである」(哲学者の書)このことはテクノロジーへの信頼のうちに最もよく表現されている。テクノロジーの問題はテクノロジーへの欲望がプロレタリアートの欲望でもあるということにおいて、けっして過小評価されてはならない。テクノロジーはブルジョワジーであろうとプロレタリアートであろうとルソー的な平等の形象において純粋にしていく。ニーチェの言う「憐れみを持った動物」である。問題は彼らがレーニンの言う階級の廃絶を逆方向に実現しているということにある。階級が存在しないのは彼らが階級的理解を得るためのいかなる可能性もあらかじめメディアによって排除されているためであり、「人民」は事実すでに存在しない。彼らは人間ではないからである。シビュラシステムとは本質的な意味でのプロレタリアート(独裁)である。それは排除されたものからなる「共同体」であり、警察は排除されているものから編成され、彼ら自身の技術によって「自治」が行われている。彼らの意思決定は普遍的な「正義」に基づいており、そこには常に例外という普遍性を取り込む拡張的な志向が存在する。そして最後にシビュラシステムは人間を信じている
 よって問題はメディアのコントロールにある。監視の視点こそが「真理」だということ。監視されることがまぎれもなく正しいということ。ニーチェの「神様がすべて見てるってほんとなの?でもそれってひどいと思うわ(悦ばしき知識)」を思い出す。監視されているかどうかが正しさの基準となっているのだ。神の視点の不在、監視されていないものは禁止されている。だがイエスはこの問題に対して適切な言葉を語っている。「もし右の目があなたをつまずかせているのならえぐりだして捨ててしまいなさい(新約聖書)」たとえ神の目だろうが抉り出して捨てるべきではないだろうか。