風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

リヴァイアサン復活の呪文3

「戦争の本質は実際の戦闘行為にあるのではない。その反対に向かおうとする保証のまったく見られないあいだのそれへの明らかな志向がすなわち戦争である。その他の期間はすべて「平和」である。」(ホッブズリヴァイアサン』)
ホッブズの言わんとすることを私なりに簡単にまとめるとこうなる。①契約とは平和の実現のための手段である。②契約がなされない場合は、自己防衛のためにどんな手段を使ってもよい。③契約は主権者の暴力への恐怖によってのみ起こる(ただしこの場合神的な、という補遺をつけなくてはならないかもしれない)。④恐怖による契約は正当であり、恐怖と契約は両立する。⑤主権者はたとえ恣意的なものがあろうと、契約に関するいかなる不正も原理的にありえない。
たとえどのような契約がなされようと、それを手段としてあるいはみせかけとして扱う方がよいという永井均の洞察を前提とした上で、私がホッブズに同意するのは人間には選択が可能な自由意志など無いのだから、理性的に考える限り恐怖以外に人間を支配する方法はないということだ。もし理性からの恐怖を克服した場合は、いかなる対等な契約もありえない。このことは間接的にはカントが、直接的にはニーチェフロイトが提出した問題である。ところでホッブズにおいて主権の行使と自己防衛の権利は明白に矛盾するのだから、主権者の側から見れば、いかなる自己防衛もそれ自体として不正であり、したがって罰する権利を持ち、反対に自己防衛する側から見れば、主権者はどんな場合でも不正であり、したがって革命の権利を持つことになるだろう。だからこの対立規定は主権者の全面的暴力を認めるということにしかなりえないゆえに、断固拒否すべきである。「生きた貨幣」の可能性が導入された、つまり理性からの恐怖を克服し、もはやいかなる契約の可能性も無くなった場合、戦争の契約を行なう以外、契約の可能性はない。この「人を殺すことの不可能性」は頽廃して道徳化し不可能だと言いながら人を殺すような事態が一般化するので、なんらかの戦争の契約を、言い換えればゲームの法を導入した方がよいということになるだろう。問題はこのゲームの法は、法を自身の「生きた貨幣」、一般等価物の可能性を賭けて「法を破るという法」を立てるということであり、そのための方法はなんらかの国際的機関による直接的暴力の絶対的占有(例えば核)でしかありえない。それが争うことが不可能である事態まで行き着かなくてはならない。ゲームの法に関しては、ゲームに負けたものは殺す意味がないので奴隷にするしかないが、この場合「友人」という規定は常に有効であることになる。なぜなら奴隷労働は非生産的だからである。