風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

勇気の公共投資2

日本国憲法によって自主的にアメリカの援助をしている日本について語るのは恥ずかしいことであるが、まだ国家に期待して権利の擁護をするというのはあまりにも自己保身に賢明であり理想主義であり革命的ロマン主義である。国民の理想が「善自体」になりコスモポリタンか冒険者以外に誇りを保つことができないとすればすでに国は滅んでおり、残された亡国の民である我々にはいまや二通りの方法しか生存の手段がない。殴りあうか冷ややかに眺めやるかである。最初の方法はマルクスが提唱し相手をみじめな状態にして犬のように吠えさせるというものだが、残念なことに武器も資本もないと革命を叫ぶ側がそうなってしまうことになる。マルクスは感動的な筆致で労働者を擁護したが、マルクス主義者を擁護したわけではない。もうひとつのニーチェが提唱した相手の理想を氷の上に置くという方法はいかなる武器も騒音も用いない。我々は相手を論駁しない。ただ哀れみをもって眺めやり、親切な激怒で対処するのではなく、恭しい口調で「あなたの理想はこれこれのものなんですね」と指摘するのである。こういった方法は一見批判をしているようには見えないかもしれないが、相手はその場で硬直し復讐も負け惜しみも言うことができない状態になる。これはかのソクラテスが実践した方法であり国家にとって実に危険なものである。気を付けるべきは知識人は自分が何をしているか知っていなくてはならないが職人は自分がどうすればいいのかを知っていれさえすればいいということだ。つまり職人には自分の技術に精通しているからといって一般的なことに精通しているわけではないということを教えると同時に、知識人には一般的なことに精通しているからといって個々の具体的なことまで知っているわけではないということを教えることで両者が互いの価値をわきまえるようにすることである。これに勇気が必要なのは時代によって価値観が非常に偏っているので一方の弱点を指摘するのが往々にして危険になるからである。さらに弱点を指摘した側が優位に立つのだから納得はそう簡単にはなされない。相手の方が偉いということを素直に認められるわけがない。そこで英雄のように王としての威厳を備えるか聖者のように神の名でそれを語るかしなくてはならなくなる。前者には国家の創設者としての役割が要請され、後者には救世主としての神格化が希望される。両方を選択するためには唯一神であるか世界皇帝でなくてはならない。宗教的寛容が可能なのは世界帝国として全世界への統治を行うために遠征する場合だけであり、階級的平等が可能なのは全人類を救済するために聖戦を始める場合だけである。こういったものなしで内政を安定させるには人種差別やカースト制を作るか敵や奴隷を人間扱いしないかである。制度的寛容とは他方の弾圧から被害者を保護をする力がないほど政府が弱体である時の言い訳であり、平等な権利とは平等が守られないことがわかっている時のスローガンである。地上に安息はなく人間にちょうどよい目標というものもない。では人類が家畜になりつつある世界を観察しつつキャラクター教皇としてシミュレーション近親婚の樹立を宣言するとしようか。