風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

事故のカーニバル

事故とは何か?民主主義にとって事故とは科学や国家の能力を実験するための理想的なスペクタクルなのだが、原発事故は逆にこの両者の無力さこそ証明してしまった。この無力さから噴出する憎悪を神々の見世物と称して悲劇にするには人間身体の直接的な参照を必要とする。しかしもはや人間が身体的に犠牲になることにはいかなる価値もない。核兵器による人類への脅迫やテロリズムの無差別攻撃はそういったものをありきたりなものにしてしまった。だがそれだけに一層貨幣の貧困の重みというものは強化されてきた。つまり貨幣が人間の本質を奪って堕落させているという告発が。貨幣にとって事故とは人間の労働の意志をいかなる感性も顧みずに搾取するための偶然にほかならないのだが、その事によって人類の思いやりと共存の権利が促進されていくのである。この平等化による想像力によって産み出された人類滅亡のあるいは地球が破壊された場合の対処法が宇宙人のシミュレーションという想定である。人類や地球は構成されたものとして解釈される。この超越論的な観点を事故に応用しキャラクターが能力を発動するという口実で法人建造物や不動産を破壊することが聖地として購入するための条件であるというようなネットワークを構築すること。その対価として法的身分である身元確認可能な身体の名前が読み上げられる。この奇蹟の顕現としての事故を表現するキャラクターへの信仰は人間の達成可能な努力をことごとく踏みにじることで輝きの強度を生産する。ある情念が財として達成可能であることが才能と呼ばれるのだから、信仰(憎悪)はそれとは反対に不毛であるからこそ真正さを所有していると主張するのだ。