風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

学問世界の解呪

感覚が技術によって多様になった世界で言葉を使う意味はあるのか。メディア技術は何のために利用されているのか。記録するためのメディアは腐るほどあるが記憶するための方法は以前として苦しませることと楽しませることしかない。同様に送信するための技術はあっても伝達するための意志は軽薄なおべっかや奴隷根性を見せびらかすための破廉恥しかない。本質的には何も言わないために何かを言う技術が洗練されるか、何かを言おうとするために単純な怒りの爆発になるかである。記憶喪失とデータ消去は意味合いが全く異なる。記憶は再現するものであり、だからこそ失われた時間となって憂鬱を感じたり懐かしさを感じたりするのだが、記録は再生するものであり、それは主に複製生産することに重きを置いている。エピソード記憶と身体記憶という区別は脳をメディア容器のようなものとして「観察」するところから「認識」される。送信するためには可視化されていなければならないが、与えることができるのは視えないものだけだということが忘却されなければコミュニケーションなどということはできない。買うことができるのは値段が見えるものだけだということ。あらゆる筆記試験はこの事実の隠蔽のために行われる。能力の可視化は努力の一般的な評価によって導入される才能というカテゴリーへの信仰を呼び起こす。言葉あるいは身ぶりの文節化が進化発達であると仮定するなら、言葉を表現する必然性などない以上、規格化されない人間を異常扱いするしかない。表現手段の発明が人類の産業的発展の進歩と見なされるのは、面白さが差異を形成するようなエロティシズムを人間の本質であると考えることで繁殖することが至上命題になる場合だけである。学問研究の本質はいかに計算可能な利益配分を主張して予算の浪費を正当化出来るかにかかっている。そのためには一般的に説明するという口実で娯楽としての見世物を教育的配慮と称して売る必要がある。誰にでも分かりやすく表現されるものは事実であるという大衆の偏見から出発して、視聴覚を不断に楽しませ続けるという旅芸人の機能に代用されるコンピュータという無知の告発監視装置を配布すること。教育あるいはヒューマニティーが功利的な性格を持っていることはあらゆる宗教を通じて可視化されてきた。だから中傷や悪だけが人間に衝撃を与えることができる。ただし中傷や悪を制度にするためには「かっこつけ」なければならない。イメージの名付けと語呂合わせに日本語は素晴らしいほど適切である。だが言葉の表現は力の証明なのだろうか。「かっこつけ」が適切にイメージとしての表現されればされるほどその威力は弱まり凡庸になる。明晰に表現されることが力の証明になるのは表現者だけであり、倦怠のイメージが無力感になるのは労働者だけである。気まぐれな気分というものがどれ程流行を決定しているかということ。しかし私が言いたいのはこの気まぐれがどれ程慎重に安全を期しているかということである。したがって地獄のイメージは無意味な労働を無限にさせることではなく、何もしなくてよいような自由な時間を与え続けることになる。無意味な浪費としての生という観点こそ知識の牢獄なのだ。ここからループする世界と改名転生が創造される。ループする基準は存在せずどのような名前の人生においてもいかなる可能性もあり得ないという魔女の立場に達したら世界は表象になりゲームのテキストに還元される。もう一度初めからやり直さなくてはならない。世界からの孤立化は気力を減退させ繰り返しを耐えがたいものにする。そこでこう呟くに至るのだ。「いかなるゲームもテキストも名前もループも存在しない」と。永劫回帰の科学的解釈。したがって残るのはあるがままの生を再び意志せよという命令だけだ。その命令の意味は生存のためのあらゆる解釈の不可能性と自分が生まれなかったことへの感謝である(生まれなかった世界の可視化ではなく)。「それはわかった。だがお前はどうするのか?」「地獄から復活するのさ。復讐の美徳を掲げてな!」世界に憎悪と復讐が満ちるのが悪いことだという根拠はどこにあるのか。だが復讐もまたゲームとして楽しまれるのなら憎悪を見世物にすることが神々のために考案されなければなるまい。つまりキャラクター同士を憎み合わせて殺し合うことが友情になるような関係を構築すること。そしてそのために人類を生け贄に捧げられるようにまで対立を深めること。人間性を賭けるという意味では人間を決定するための戦争であり、人類という表象を破壊するという意味では人間性を決定しないための戦争が始まる。