風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

軽蔑のマーケティング

いかに売るべきか?一般財でない商品を売るためには大衆の生産形態における抑圧の形式である幻想を分析しなければならない。それはつまり、評価の貨幣形態を導入するためにはまず大衆の幻想と商品の形式が一致していなくてはならないということだ。消費においては数がすべてであり、そのため宣伝広告は数を増やすようなものでなくてはならない。消費の前提は商品の形式が知られていることと、どのような評価がつけられているかを知ることであり、「最高の広告は満足した顧客である」ということは、商品はあらかじめ宣伝が可能となるような記号を持っていなくてはならないということである。記号は宣伝する対象よりもわかりやすいものでなければならないのだから、宣伝の欲望によって記号が商品になるときは内容の白痴化が促進される。ここから一般財でない商品の直接的な質という評価が生まれるのであり、価値が固定された商品の記号は流通から排除される。いまや評価は数によってではなく基準からの軽蔑によって測られるのであり、宣伝不可能な信頼や名誉という貨幣が与えられる。信頼を与えられた者は労働力を売るのではなく信頼に服従するのであり、負の評価である恥辱を避けるようになるのである。ということは、あらかじめ何を軽蔑するのかを知らせておくことで、何が価値の基準であるかを知らせることができるということである。欲望は抑圧、つまり軽蔑の基準によって生産されるのだから、その事によって生産される幻想を評価することで自身の労働力に対応する軽蔑の記号を生産することができる。労働力の記号を宣伝によって増殖するためには、軽蔑の評価である恥辱を商品としての外在が不可能になるまで形式化する必要がある。というのは恥辱はそのままでは宣伝できないからだ。ところで増殖した労働力の記号はそれ自体他者の欲望であり、交換可能な貨幣である。このようにして信頼の評価が貨幣となり、貨幣を欲望から生産することができるのである。