風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十二回目の爆発『なぜ人前で善いことをしてはいけないのか』

なぜ人前で善いことをしてはいけないのか。もし人前で見せることが報酬になるというのなら、人前で行なわれない善行には別の種類の報酬があるとでもいうのか。善行が報いを受ける為に行なわれるということ自体は否定されていない。問題は方法なのである。まず第一に、人前で見せないような善いことをするのは、なんらかの超越的存在(神、父、世間、社会、国家、良心)などのために行なわれるのだと考える。第二に、そういうものに善いことをしても必ずしも報酬があるわけではないことに気がつく。第三に、たとえ超越的な存在であってもそれは依然として人前に見せる為に行なわれていることに気がつく。第四に、だから自分に好きなようにしても善いのだと気がつく。第五に、しかしそれは禁止なくして不可能であることに気がつき、善いのは神などの超越的存在だけだということに気がつく。そして私の神の行いだけが残る。問題なのは人前で見せる善を目的として行なう者は、その場だけかもしれないが評価や金銭をもらえるかもしれないということである。当然それは他者の評価に依存したものとなる。自分の利益について、他者の判断に頼ってはならないというのが、人前で善いことをしてはならないという言葉のすべてである。善は隠すという形式で行なわれなければ他者の利益になってしまう。つまり善は発見されるのでなくてはならないのだ。隠されないものは明らかにされることもない。見せるための行為は既存の評価によってしか測られることがない。したがって宣伝は決して隠されてはならないということになる。重要なのは「私」の秘密を与えることである。そして「あなたのしてもらいたいように相手にもする」という法の新しい形式を与えることが「預言者」や英雄の名で呼ばれることになるのだ。もちろんそれは誰にとっても公正な法ではないし、また新しい不正をつくりだす法でもある。しかし法によって税を払わせることができるのだから、秘密を与えることは「持っているものに加えて」受け取ることになるのである。そして偽善者は、人前で見られる評価の基準を見失うことになる。注意すべきは偽善者は自分の本当のことを言って善行を人に見せるのだが、「預言者」は自分の秘密を与えることで善行を行なうということだ。